理解のある彼君をゲットした元弱者女性を叩くことの意味と弱者論についてとりとめもなく書いてみた

時間が遅くなってしまったのでTwitterに書こうと思っていたことをここに書いて今日も毎日ブログ更新達成!ということにしたい。

 

最近、理解のある彼君によって助かった弱者女性を叩く風潮がTwitterではよく見かけられる。今日も『発達障害女性がマッチングアプリなどを利用して男ができて、まあそこそこ幸せになった』みたいな事例が叩かれていた。「マッチングアプリで男を漁ることはできるのね!」みたいな感じで。

しかしこれを言ってしまうと、何らかの要因で助かった発達障害の人全員に言えてしまうのでは?とふと思った。例えば、生活保護障害年金を受給できてる発達障害の人にも、クローズ就労で稼げてる発達障害の人にも、ネットで稼げてる発達障害の人にも。

弱者であった人が助かるために発揮した能力自体を批判すると“助かることはダメ”といった訳の分からない理屈になりかねないのでは。

だからそうではなくて、批判されるべきなのは、助かってるのに助かってないふりをしたり、助かった理由をぼかしたり隠したりすることだと思うんだよな。

弱者が、理解のある彼君で助かることも、生活保護で助かることも、医療福祉で助かることも、たまたま発達障害精神疾患の症状が軽くて助かることも、たまたま発達障害精神疾患を補う別の才能があって助かることも、たまたま親が資産家で助かることも、全然いいと思う。ただし、助かってるのにまだ同情を買おうとしたり、助かった真の要因を隠そうとしたりしなければ、ということ。まあ後者は自己分析が正確にできてないと知らず知らずやってしまいがちなのかもしれんが。ちなみに特に隠されがちな要因は「たまたま発達障害精神疾患の症状が軽かった」と「たまたま発達障害精神疾患を補う才能があった」だと俺は思ってる。

 

少し話が逸れるが、理解のある彼君によって助かった弱者女性が最近叩かれるようになった理由は以下の3つだと考えられる。

  1. たまたま潮目がその属性を叩いてもいい空気になったから
  2. もうそこまで弱者じゃないのに必要以上に弱者ぶっているのが気に食わないから
  3. 叩いている側には無理な事だから(あるいは無理だと思い込んでいる)

そしてこれは、他の助かることができた弱者にも当てはまる。じゃあなぜ今、理解のある彼君によって助かった弱者だけが叩かれてるのかというと、たまたま今1.がそのようになっているから。なので、時流によってまた別の何らかの要因で助かった弱者が叩かれることになる。

ちなみに、2.についてだが、そもそも助かった時点でもう弱者ではない場合が多いと考える。とくに発達障害はそもそも概念として曖昧なのにも拘らず正式な病名(障害名)として専門家によってラベリングされるので、当事者もいつまでも弱者性の証明のような使い方をしてしまうのだろうが。

だからこそいつも思うのだが、というか弱者論を論じるといつもこの考えに行きつくのだが、真の弱者かどうかは絶対的な実情(孤立度、経済状態)のみで判断すべきという結論になる。これはTwitterでも100回(体感)はツイートしてる。

もっというと、弱者ぶる、あるいは自分で声(我は弱者なので理解と配慮と支援と金をよこせ)を上げるのも、ある種の強者性だったりもするので、結局は真の弱者は第三者が積極的に拾い上げていくでもしない限り永遠に可視化されることはない、となる。でもそれも結局は運や加護されやすさといった要素が必要なので、まあ真の弱者が自動的に救われるシステムが必要となる。例えばベーシックインカムなど。

 

なんか後半は論点が二転三転してしまったな。今日はもう時間がないのでとりとめもなく書いてしまったが、時間と気力があればいつかもっとちゃんと書きたいな。