毎年1月15日になると近場の神社でとんど焼きがある。とんど焼きとは、神社の境内などで火を焚いて各家庭のしめ縄をまとめてお焚き上げする行事のことである。
今日は15日だったので両親がしめ縄を持ってとんど焼きに行ってきたのだが、時間が遅すぎたのか神社が閉まっていたとのことで、しめ縄をそのまま持って帰ってきた。
とんど焼きは今日しかやっていないので、このしめ縄をどうしようか悩みどころだ。
そこで、以前とんど焼きに行きそびれたとき家でお焚き上げをしたことがあることを思い出した。15年ぐらい前か、父親が塩でお清めして庭で焼いたのだ。
しかしそのことを母親が父親に言うと父親が発狂したらしい。「消防署が来たらどうする!どんな倫理観をしてるんだ!」とか言ったらしい。いやいや以前やったことあるじゃん。
まあでも15年前から時代は変わってきてるし、しめ縄を燃やすだけであっても屋外で火を扱うようなことはあまりしない方がいい、という考えなのかもしれない。あるいは父親のことだから、もっと他の何かしら個人的な拘りがあるのかもしれない。
となると生ごみと一緒に捨てることになる。しかし俺にも拘りがある。縁起物はできるかぎりしきたりに従って処理したいのだ。
そこで、とんど焼きに行きそびれたときしめ縄をどのように処理すればいいのかネットで調べてみた。
- 白い紙の上に置いて塩と酒で清めて感謝の意を込めて燃やすことでとんど焼きに行けなかったことを年神様に許してもらう
- 白い紙、または新聞紙の上に置いて左右と真ん中に塩を置いて包んで感謝の意を込めて生ごみに出す
- 塩で清めて袋に入れて生ごみに出す
他にもいくつかあったが、自己流みたいなのを省くとこの3つ辺りがスタンダードっぽい。
俺はできるかぎり丁寧にしたかったので1.をしようと思った。場合深夜に父親が寝ている間にすれば文句も言われないだろう。しかし父親は毎朝庭に行くので翌朝バレるリスクがある。
となると2.にしようかなとも思った。こちらの方が穏便ではある。しかし自分の拘りを我慢して後々イラつくのが嫌だった。何よりできるかぎりのことをしなかったことにより縁起が悪くなるのを危惧した。
1時間ぐらい悩んでいた。ネットでさらに調べまくったり、あるいは目に入った色が黄色だったら1.でそれ以外だったら2.とか、次ユーチューブに映った人が女性だったら1.で男性だったら2.とか、脳内花占いのようなことを延々とやっていた。
夜の23時を過ぎていた。15日の内に日付が変わる前にしてしまいたかったのでそろそろタイムリミット。
この時点では1.がやや優勢になっていた。
しかしここでとりあえず飯を食おうとなるのが俺。決断からの逃避。
飯を食いながらユーチューブで高橋ガナリの動画を聞いていた。ふと「人が喜ぶかどうかを基準にしろ」という言葉が耳に入った。
1.を選ぶと父親を不快にさせる可能性がある。それで父親が母親に八つ当たりして母親も不快にさせる可能性がある。そして父親と俺は喧嘩になって俺も不快になる可能性がある。誰も喜ばない選択だなと思った。
縁起やしきたりよりも人が喜ぶか不快になるかに拘った方がいいのではと思えてきた。
しかし一方で、こうやって今まで父親の拘りや他者の都合に気を使って、自分の拘りや都合を我慢することを繰り返してきたことで、俺は怒りと抑鬱にまみれた人間になってしまったのではなかろうか、という葛藤も沸いてきた。
しかしもう少し考えてみると、これはちょっとオカシイなとも思えてきた。というのも、今回のこの自分の拘りや都合を通すという中には、他者の都合を汲むことが悔しいから逆のことしたくなった、という捻くれた思考が含まれていることに気付きはじめたのだ。これは非常に非合理的だなと。
自分の拘りや都合を押し通したいという正規の欲求に、相手の拘りや都合を阻害してやりたいという邪な欲求が上乗せされて肥大しているのだ。本来なら逆であるべきだろう。自分の正規の欲求から相反する相手の欲求分が差し引かれて縮小するはずだ。もしそれでもやるべき動悸が強くて折れることができなければ、やむをえず強行するという形になるはずだ。にもかかわらず、今回の俺は、相手が喜ぶのが悔しいから余計にやりたくなるというふうに、本来の正規の欲求が動機ではなくなってきている。
そう考えると馬鹿げてきて、時計を見るともう23時50分を過ぎており、まあ時間的にも今から燃やして今日中に終えるのは無理だなという気持ちも重なり、結局2.にすることにした。