暇な癖に「死にたい」と言う人の内面を勝手に分析してみた(間違ってたらゴメン)

面白いツイートを見つけた。

現代日本は誰もが息を吐くように「死にたい」を連呼する時代なわけだが、このように自分にとっての「死にたい」の意味を一歩俯瞰して言語化しているのはあまり見かけないので、面白いと思った。

ちなみに、この人とは相互フォローで、俺のツイートについて向こうからリプライしてきてくれたこともあったので、今から書くことも今度はこちらから引用リプライなりしてもよかったのだが、考えが違ったらどうしようとか、反応に困るだろうなとか、色々考えるとチキンになってしまいブログで書くことにした。あとTwitterで書くには長くなりそうだったというのもある。

てか、関係ないけどこの人のツイートは面白いものが多い。難しい言葉を使わずに人間心理について分かりやすく言語化しているというか。精神医学や心理学の専門用語を多用してそれっぽいことほざいてるインフルエンサーよりもよっぽどモノゴト(主にポンコツ関連)の本質を捉えていたりする。相互フォローの人で一番面白いかもしれん。

で、ここからが本題。

先にも書いたが、今は誰もが口々に「死にたい」と言うようになった。これは、死にたいと言うことが許される社会になってきた、SNSの発達で死にたいと言える場が増えた、など色んな理由があると思う。まあ今回触れたいのはそこではないのでここはあまり深くは探らないが。

そして昔は死にたいと言えば“ただのかまってちゃん”だとか割と切り捨てられることが多かったように思う。それで実際に自殺してしまった人、かまってちゃんを辞めて大人になった人、色々いるだろう。

なぜ色々いるのかというと、同じ「死にたい」でもそれぞれ意味が違っていたというのが一つの理由として挙げられる。今回引用したツイートはその意味を上手く分析していて面白いなと思ったのだ。

ちなみに、死にたいの意味がそれぞれ違っている、というのは、本気で死にたいと思ってた人or死にたいと思っていたが本気ではなかった人、だとかそういう二択で語りたいわけではない。本当に死にたいのかそれ以外の意味があるのかは、グラデーションにもなってるだろうし、それは本人にしか分からないし、何なら本人にも分かってなかったりするだろう。例えば、とにかく死にたい(30%)、かまってほしい(5%)、助けてほしい(25%)、口癖(5%)、その他言語化できない深層的な悩みを解決したいができなくて苦しい(15%)etc、といった感じかもしれないし、こんなもん話を聞いたところで第三者が知りえる所以はないし本人もイマイチ分かってなかったするのではなかろうか。

ここで「死にたい」の種類を整理してみようと思う。

  1. 現実を変えれないことへの絶望としての死にたい
  2. かまってちゃん
  3. 言語化不可能な死にたい

「死にたい」と言う人の状態はこの3つのどれか、あるいは複数がミックスされている状態ではなかろうか。

ちなみによく、希死念慮は病気の症状だから!とにかくこれは病気ということで(はい、しゅ~りょ~)!みたいなことをほざくバカがいるが、そういう奴はの意見は思考停止していると思うのでほっとく。そういうバカは黙ってバカスカ薬を飲んどけばいい。

話しが飛んだが、一つ一つ説明してみる。

まず2.については、書いてその通りなので、あまり詳しく書く必要もないと思われる。まあ、助けてほしいとか、分かってほしいとか、承認欲求だとか、色々な感情が渦巻いていたりはするだろうが。

1.の、現実を変えれないことへの絶望、これは代表的でわかりやすいのを挙げると、以前ALSの人が安楽死を求めスイスに行った記事を見たのだが、これは正に現実を変えれないことへの絶望だろう。

体がどんどん動かなくなっていきやりたいことができない、あらゆる欲望や楽しみが満たせない、周りに世話をされるだけの自分への劣等感と罪悪感、自分の存在価値への疑い、これが不可逆的に進み続けるという確信。

つまり希望しないこの現実は絶対に変えれないという確信による絶望。実に分かりやすい。同じ立場になると自分でも死にたくなるよ、と思う人は多いのではなかろうか。もちろんそれでも折り合いを付けて希望を見出すような人もいるが、それができない人もかなり多いのではなかろうか。

また、ここまで大それた客観的に見ても厳しい状況ではなくても、側から見ればそうでもないが本人にとっては絶望的だということもあるだろう。

これについては絶対的に現実を変えれない場合と、絶対的に現実を変えれないと本人が思い込んでいるという場合があるが、まあ大抵は前者だろう。こういう人間の認知ってのは意外としっかりしている。絶対に実現不可能か頑張れば可能かどうかというのはまあ結構分かってしまうのだ。

これについての対策は、なんか別の記事で書いた気がするのだが、諦めて別の価値観に目を向ける(この場合、別の価値観が見つかってから諦めるというケースも多そう)、ほぼ諦めてるけど諦めを保留して一応実現を目指す体にして別の価値観にも目を向ける、完璧な理想の実現は不可能だと諦めそこに近しい状態を考案して目指す、の3つが逃げ道かと思われる。まあ、自分の心になんとか折り合いを付ける、ということだ。

それが難しいんだけどな。

ちなみにこの考えだと先のALSの件でも逃げ道がある。てか逃げ道という言い方はネガティブだな。解決と言った方がいいかもしれん。

まあでも口で言うのはたやすく実行するのは難しいな。

現に俺が非常に心が弱い人間で、この葛藤の中でいつも悩んでいて、幼少から永久未来クラウディーハート状態なわけなので。

ああ、せっかくなので一例として俺のことを書く。

まあ絶望ってほどじゃないし、絶望なんて大袈裟な言葉を使うのはおこがましいのだが、現に死にたいとまでは思ってなかったと記憶しているし。

あれだ、女になりたいと本気で悩んでいた時期がある。だいたい小学生ぐらいの頃かもっと前かもしれん。それが吹っ切れて無くなったのが30過ぎてから。

子供でも絶対に叶わないのは分かってたので、生まれ変わったら女にしてくださいと毎日神様に願っていたな。20代の頃もそういうのをネットで何時間も検索したりしてたな。まあ俺は体がデカいし臆病者なので実行に移すようなことは結局なかったが。

ちなみにこれは、リアルでは言ったことはないし絶対に言えないことだった。匿名のネット上でもTwitterでさらっと2回ぐらいツイートしただけで流れて行ったので、ここまでハッキリと書くのはここが初めてだな。

まあでも所謂LGBTと言われる人達に比べれば、大したことではなかったのだろうな。こうやって今は吹っ切れているので。しかし死にたいってのはこういう実現が絶対に不可能な希望がある状態が主原因じゃなかろうかと。そこに更に疲れや日々のストレスによってもセロトニン量が少なくなり、よりこの感情が強まると。

この絶対に実現不可能な希望ってのは複数ある場合もあるだろう。例えば今なんて俺は若返りたいという実現不可能なことを強く望んでしまっているし。まあこれは結構な人が悩んでいるのではなかろうか。そして更に実生活が上手くいかずセロトニン量が少なくなっている時などはこたえる。

あと、結構な人にありがちな実現不可能な希望といえば、大切な人に会えなくなったなんてのも結構あるだろうな。

そして、もっともっと人には理解されないような実現不可能な理想に絶望している人もいるだろう。というか人に理解されにくい理想ほど悩みの種になりやすいし、死にたくなりやすいとも思う。誰にも話せないしな。また複雑すぎて自分でも上手く言語化できないレベルだったりもするしな。

で、ここで3.につながる。1.は言語化不可能だったりする場合もあり3.となることがあるという。

ただし、3.については深層を含めた本人の心のどこかに存在している概念だけど言語化不可能なだけなのか、そもそも存在しないのか、のどちらかであるとしかいえない(つまり1.から変化したとは限らない)。これは誰にも分からないから。ただし俺はこの正体は前者じゃないのかなと思っているわけだが。

まあ、あまりにも複雑すぎたりして言語化が不可能ということは存在しないのと同じという解釈もできるだろう。だからまとめて「言語化不可能な死にたい」という表現がどのみち一番適切かと思われる。

こここまでで、「死にたいと」と言っている人の内情の種類を書いてみたのだが、まあお前に何が分かるとか思う人もいるかもしれんが、もしそうならゴメンとしか言いようがないわけだが…

ふと思い出したのが、Twitterにいる精神科医インフルエンサーがツイートしていた内容で「死にたいと言うのは、この辛すぎる状況をどうにかしてほしい、助けてほしいという意味です」みたいなことを言っていた。これは俺が今書いた3つの種類をめちゃめちゃ単純化して書くと当てはまっているな。全てを満たしているというか。

まあ俺はTwitterでよくバズっている精神科医インフルエンサーは大抵がクソだと思っているが。ポジショントークが過ぎるんだよ。あと薄っぺらい自己啓発みたいなのも多い。俺は自己啓発の類は嫌いじゃないし否定もしないし何なら自己啓発を否定してる奴は自己啓発を否定することに酔いしれてるだけだろとか思うのだが、精神科医はもっと専門的なこと言えよお前の立場で発する情報じゃないだろとか思うな。まあ専門的なことを言ってるタイプも結局は都合の悪いことは発信せず自分たちの利益を見据えた発信しかしてないように見えるが。

話しが飛びまくるな。どんどん文字数が増えていくけど、テーマから外れまくってるだけでゴミを量産してるだけなんだよな。まあいいや。

ここでテーマに戻すと、「死にたいと」という言葉には意味があるという厄介さを俺は感じている。

どういうことかというと自分の中にある負の感情、つまり先ほどから書いている欲望、理想、とそれが実現が不可能であるということ、これらを言語化する努力を放棄して「死にたいの」一言で済ます。

もちろん言語化することに価値はない。むしろ言語化することで更に病む可能性もあるので、とりあえずセロトニンを増やしてくれる薬を飲むなり、気晴らしをするなり、生活改善に精を出すなりして、深く考えず単純にとにかくセロトニンを増やす行動のみにフォーカスを置く方がいいのかもしれない。たぶんこれが精神科医がよくやっている死にたい人への対症療法なんだろう。

しかし負の感情の言語化をサボって、安易に「死にたい」を連呼することで、ああ自分はとにかく死にたいんだ、と自己洗脳していき、実際に死んでしまうなんてケースもあるのではなかろうか。

ただし言語化したところで、そこに折り合いを付けて何かしらの行動に移さないと意味がない。それどころか、結局1.の実現不可能であることへの絶望を強調してしまい余計に病んで死にたくなるリスクもあるが

ということはつまり、負の感情を「死にたい」連呼で済ませず具体的に言語化するのなら、その先もする必要があるということだな。それプラス、折り合い付けとそれに伴う行動も必要ということ。

そして更にそれプラス、単純にとにかくセロトニンを増やすためだけの行動も同時進行でやるということ。

これら三つをやるのが良いのではなかろうか。

まあ一つ目だけで十分という説が有力なのかもしれないが、俺のように考えたくなくても考えてしまうようなタイプの人間は一つ目から二つ目も徹底的にやればいいのでは。脳死で「死にたい」を連呼するよりは。

まあでも脳死で「死にたい」を連呼するタイプの人は、一つ目と二つ目を飛ばして、三つ目のアプローチだけをする方がいいのかもしれんな。そもそも一つ目に向かう気がないのタイプなのだから。ここは適性の問題なのかもしれない。

しかし一つ目の適性の人だとしても、「死にたい」の連呼に終始することでそれ以外の意味が隠れてしまい、本当に死にたくなるというルートをたどるリスクはある気がするんだよな。

あるいは、これはあくまで仮説なのだが(まあずっと仮説しか書いてないがw)、言葉にすることで行動意欲が打ち消されるタイプの人がいて、これを逆利用することで死にたいと連呼すれば死にたくなくなるみたいな理論もありえるな。

ちなみにこの言葉にすることで行動意欲が打ち消されるタイプというのが俺で、よく言霊には力があり実現となるなんて言われてて、これは一説としては正しいと思うし、俺にも当てはまることもあるのだろうが、俺にはこの逆パターンの方が顕著にあるような気がして、例えば「明日から頑張る」と言っただけで達成した気になって、実際にあくる日になると今日以上に堕落した、とかいう恐ろしいほど言霊実現説と逆の効果がでてしまった経験は結構あって、威勢のいい言葉やカッコつけた言葉を吐いたはいいけど現実はその逆になってしまい、情けない思いをしてばかりというw

逆にネガティブなことばかり言ってる人が俺なんかよりもよっぽど行動力があって、ちゃんとしてるとか。

となると、よく「死にたい」と言うことは、ある種の人にとっては良いことかもしれんな。

となると、俺はもっと「死にたい」と言った方がいいのか!?

俺が死にたいと言えないのは、諦めてないから、冷静に分析すると実際には本気で死にくないから。まあよく楽に死ぬ方法とかはよく考えるんだが、実際には死にたいとも思っていない。だから死にたいとは言わない。先ほど書いた3種のどれかであり、1.は言語化して折り合いを付ける作業を常に脳内でしているし、2.は単純に今の俺の考えだと恥ずかしいことだと思ってしまうから(実際にはそんなことはない可能性は高い、つまり構ってもらうため「死にたい」と言うことは正しいことである可能性も高いが、俺の好みではない)、3.は1.に昇華する努力(努力と書いたが、これも正しいことかどうかは不明、というか間違ってる可能性大)をした上で、残った分は幻想or俺の力では言語化すら不能ということなので、そこは単純にとにかくセロトニンを増やすだけの行動をする方向で対応するしかないと判断して、放置することにしている。それで少しばかりは楽になるだろうし。

そしてさらに死にたいと気軽に言わない理由はもう一つあって、縁起強迫があるというのも大きい。そういう不謹慎なことを言うと神様からの罰として恐ろしいことが起きるのではと思ってしまうというのがある。よって言わない。

殴り書きしているので結論が出ないな。

まあまとめると、

  • 死にたいと言う言葉の裏にある意味は人それぞれ違う。
  • 死にたいと言わせている自分の中の絶望を言語化していくことで、そこから更に、折り合い→行動までいくことができれば、ある種の救いがあるかもしれない。
  • ただし、そういったまどろっこしいルートをたどらず、単純作業として直接的にセロトニンを増やすことによって負の感情を改善することにフォーカスすることでの救いもある。
  • この両方を組み合わせるという手もある。というか、前者をやる場合は後者もやった方がいい。
  • つまり、大きく分けると、後者タイプor組み合わせタイプ2種類となる。
  • どちらが向いているかはその人のタイプによる。考えたくなくても自ずと絶望について分析しようとしてしまうタイプの人は前者でいくしかなく、そうでない人は後者でもいけるかもしれない。
  • またこれらはグラデーションになっている。つまり、100%後者だけとか50%&50%で組み合わせている、とかになることはあまりない。

 a. 死にたいと連呼することで本質から外れ、「死にたい」という言葉尻だけの意味で自己洗脳が始まり、自殺してしまう要素を高めるというデメリットがある、という仮説

 b. 逆に死にたいと連呼することで満足して行動に移さずに済むというメリットがある、という仮説

ここら辺が今回の主張まとめだな。

ただしここまで書いてきたことは、自分のみの視点からのこと。他者の視点に立つと死にたいと言うのを聞くことは不快になる場合が大半なので、他者視点ならどちらにしろ「死にたい」とは言わない方がいいのかもしれない。ただし、上記まとめのb.が当てはまる人同士が共感安心するため、または死にたいと言いやすい環境作りのため、という場合に限れば他者視点でも言った方がいいのかもしれん。

てか自分で書いてて思ったのが、死にたいと言ってる人というよりも暇な癖に死にたいと言ってる人と書いたほうがよかったかもしれん。タイトルも『暇な癖に「死にたい」と言う人の内面を勝手に分析してみた(間違ってたらゴメン)』にした方がいいかもしれん。てか今した。

でもまあ今から冒頭から読み返してそのことについて再考したり推敲したりするエネルギーは残ってないので、もういいや。てか自分ですら読み返す気にならない記事なので誰も読まないだろなwガハハハハw