拝みや儀式について神様の気持ちを想像してみる

立場や状況によって態度を変えるのは醜いことだと思っている。例えば、女にモテない童貞が必死に女に媚びていたのに、童貞を捨てて女にモテるようになった途端に女を粗末に扱いだすようになったとか。

こういうのは人として醜いなと、そういう人にはなりたくないなと、見下してすらいる。

しかし俺も実はそのようなことをしているよなと、ふと思った。例えば、絶対に失敗したくないような緊張することが待ち構えている、あるいは不幸のフラグが立って不安な感情が増大している、そんなとき俺は神様に拝んだり執拗に儀式を繰り返したりする。通常でも俺はいつも神様に拝み儀式をしているのだが、不安の大きさに比例してそれが増えててくるのだ。これは立場や状況によって態度を変える卑しい行為ではなかろうかとふと思たのだ。

そしてこれは神様からすると非常に不愉快ではなかろうか。人間でも立場や状況によって態度を変えてこられると敏感な人ならそれに気付いて不快になったりする。ましてや神様は神なんだから余裕で見抜くだろう。そして「こいつは卑しい奴だな」なんて思うかもしれない。

ちなみにこうやって神様の考えを勝手に想像していることすら無礼だと、書きながら今俺は畏れているのだが…

さらにこの畏れもまた失礼かも…とか思ったりもする。

あと、あれだ、実施的な努力行動もせず許してくださいと儀式を繰り返しているのはオカシイよなとか思ったりもする。

そういった神様への想像と感情と拝みと儀式と不合理さなどについて葛藤が心の中で蠢いているな。

 

ところで、文章を書くとき、単語の配置や全体の文字数や句読点の数などに拘ってしまう。それは文章としての美しさとかそういうのではなくて“不吉さ”を回避するために。

この記事を書いているときもそう。この単語とこの単語のこういう配置は不吉だとか、この文字数は不吉だとか、気持ちがわるいとか、そのために修正をする。その上で文章としても成立させる必要があるので面倒だ。

しまいには、投稿時間や秒数にも拘ってしまう。目に入る、意識できる、数字を片っ端から拾ってこれは不吉だとか気持ちがわるいとか考えてやり直しや修正を繰り返す。
文章としてオカシイから修正とかならいいんだけど不吉だからとか馬鹿げてるよな。