試練を乗り越えていない

何一つ試練なんて無かった。引きこもりは辛いが試練ではない。例えば、この引きこもりという状況から、癌などの大病を患ったり、完全にキレてしまい何か事件を起こして刑務所に行くことになったり、親が認知症になって何年も付っきりで介護をすることになったり、こういうのが試練だ。あるいはそこまで大それたことではなくても、もっと軽い病気で手術入院をしたり、近しい親戚が亡くなって勇気を振り絞って何年かぶりに親戚の集まりに行ったり、もっともっと軽くたっていい、何かしら降りかかった問題に対して対処することが試練を乗り越えるということだ。引きこもりってのはただ全てから逃げてるだけだ。そして逃げている間に否応なしに試練が訪れるわけだ。しかし俺は今のところこれといった試練を受けていない。ずっと楽をしている。

何も向こうから訪れる試練だけじゃない。こちらから向かって行く試練だってある。例えばアルバイトの面接に行くのはこちらから向かって行く試練だ。何もしないで逃げて引きこもっているのは試練と戦っていることにはならない。葛藤という形である意味心の中で戦っているという部分はあるのかもしれない。しかし何も乗り越えてはいない。試練を乗り越えることで前進できるし成長できるし人生を改善していける。俺は何もしていない。そういえば強迫観念とすら戦っていない。俺は父親に対して不吉な観念を持ってしまっている。しかし今この記事を書くのをやめようとした。なぜなら父親が隣の部屋に来たからだ。不吉な観念が沸いてきて中断するか書くのをやめてしまう。そしてこの不吉さを打ち消す儀式をする必要が出てくる。ここを我慢して書き続けるべきなのだ。これは小さな試練を乗り越えるということかもしれない。しかし形には残らないので何か物足りない。しかしやらないよりはマシか。

ああ、しかし思考はやはり動かないな。一切筆(キーボード)が進まなくなった。何を書こうとしていたか忘れてしまった。まあいいか。それでもアップロードはしよう。書き続けるのは無理だがアップロードはする。これで半分は強迫観念に打ち勝ったことになる。小さな小さな試練を乗り越えたことになる。