強迫観念によって思考力が濁って人生が上手くいっていないところもありそうだがそれを嘆きすぎると余計に上手くいかない

物心ついたときから夜になると神様とご先祖様に手を合わして般若心経を唱える。これは母親の影響。今は自主的にやっている。

最初は神様とご先祖様にそれぞれ合計2回。今は神様と父方のご先祖様と母方のご先祖様にそれぞれ合計3回。唱える前には歯を磨きよくうがいして手を洗う。唱えているときに物音などで注意が逸れるとやり直し。唱えているとき自分の唾で手が汚れた気がすると手を洗い直しやり直し。ミスが多いときは唱える回数自体を増やしたりして調整する。調節って何って感じだが。まあ結構時間が掛かる。

もう30年以上やっているわけだが、時期によってルールや所要時間はまちまちで、引きこもりになってしまった今はルールの数も時間も長くなってきた。ちなみに最近だと時間は平均すると20~30分ぐらいだろうか。長いときは1時間近くすることもあるが。

また、これに限らず神様やご先祖さまといった神仏への敬意なのか媚びなのかもはや分からないのだが様々なルールがある。例えば散歩のときあの場所は不吉だとか罰が当たるだとか迂回したりよくすることがある。これは引きこもりになる前に人と一緒だったりしたときは嫌だなあとか思いながらも迂回できず通過するのだが、その分、夜の般若心経のルールは厳格化したり回数が増えたりした。

こういうのは精神医学で強迫観念というらしい。無駄に手を何度も洗ったり、自分の中の観念でルールを無数に作って無意味だと分かりながらそれに従ったりすることを。心療内科などで診断を受けたわけではないので気軽にこの言葉を使うのは、気が引けるが、文章を書く便宜上ここでは使わしてもらう。

今でこそ引きこもりだが、俺は人に対してはそれなりに正しい認知を持っていると思っている。まあポンコツなので普通の人よりはズレてるときもあるが。こういうことをすれば相手が喜ぶとか、こういうことをすれば嫌だろうなとか、ある程度は予測できると自負している。ポンコツなりに仕事もしていたことはあるし、友達だっていたし、恋愛もしたことはある。

しかし対象が神仏となると、かなりズレてしまっているのではと思う。というか全くもって論理立てて考えれていない。さらに言うと対人と違い検証が不可能だ。対人なら自分のやった対応へ相手がどう反応したかを見ることで検証ができる。

手を何度も洗ったり、何度も般若心経を唱えたり、道を迂回したり、ここに論理的な根拠は一切無い。一般的なしきたりなどに従っている訳でもなく、次々と自分だけのルールを作りだしている。他人から見ればなんでこんなことしてるんだろうと思われるだろう。

しかしこの神仏への敬意という名の媚びをしていないと落ち着かない。

自分の人生が上手くいってようがいっていまいが、さっきも書いたがこれはずっとやっている。そしてルールの種類も時間も論理的に何の根拠もなく時期によって変化したりする。

神仏を信じ敬意を払い論理的ではないルールを自分に課すというのは誰にでもあると思う。太古から人類がやってきたことでもあるし。ただ俺はエスカレートし過ぎなのだ。

では、まずこれをできるだけ平均値まで下げるべき、というのがあるだろう。大晦日に初詣に行きおみくじを引いて一喜一憂する分には全然いいのである。自分の中でだけのルールを作っていき、それによって時間や思考が侵食されるレベルにエスカレートしいき日常生活が不便になるのが良くない。

人生を良くしていくには、

  • 観察
  • 閃き
  • 忍耐
  • 勇気

が必要だ。

しかし強迫観念という不可解なルールを考えてしまうことで、これらが濁っていく。

それが勿体ないというか、これが引きこもりになってしまった一因まである気がするんだよな。しかも引きこもりになってからこの濁りは酷くなってきたという悪循環。

まあ、一番良くないのは、この不可解なルールのせいで力が発揮できないからダメなんだと嘆くことだったりもするんだけどな。

これは心理学者の故・河合速雄先生に言わすと『ストレスの二次災害』らしい。ある原因によって力が発揮ができないとき、ある原因があるから力が発揮できないことを嘆くことで、ある原因+嘆き、と二重のストレスがかかってしまいさらに力が発揮できなくなると。

なんか何が言いたいのかよく分からない文章になってきたな。まあ今散歩してて思ったことなんだが、前半の1000文字ぐらいは書くつもりはなくて、重要というか自分用として書き残したかったことは後半の400文字ぐらい(「人生を良くしていくには」~以降)なんだよなあ。

時間オーバーがきたのでここら辺にしておく。