父親に対する汚染感と不吉感について

昨日書こうと思っていたけどメンドクサクて書けなかったことを今から書こうと思ってたのだが、父親がトイレに降りてきて思考がフリーズしてしまったので書く気を失くしてしまった。

これまでもツイッターやブログでちょくちょく触れてきたのだが、父親は俺にとってのアレルギー物質だ。非常に気持ち悪くなってしまう。

そして、アレルギーと書いたが、ただのアレルギーだけではなく強迫観念も絡んでいるように思うのだ。

例えば、ブログなどの文章を書いている、あるいは身の回りの整理をしている、など何らかの作業をしている最中に父親の声が聞こえてくると、汚染された気がする、不吉な気がする、上手くいかない気がする、恐ろしいことが起こる気がする、などの負の感情が沸いてきてしまう。それによって、停止、やり直し、中止、あるいは何らかの儀式によってその感情を打ち消そうとする、などをしてしまうのだ。

つまり冒頭で書いたブログを書こうとして辞めたというのもこれだ。

ブログを書くときなどは、普段から父親の声や生活音をシャットアウトするためにイヤホンで大音量で音楽を流しているのだが、それでもどうしても薄っすら音が聞こえてきたり、あるいはちょうど曲と曲との合間に音が入ってきたりする。

今回の場合だと、イヤホンを装着する前に父親が二階からトイレに降りてきてしまった。すると俺は全ての作業を中断してブログを書く前に、しばらく父親が居る部屋から遠い部屋に避難して、この負の感情を打ち消す為の儀式をしてから、ようやく作業を再開した。しかしそれでも汚染感と不吉感は残っており、非常に不快でブログも上手く書ける気がしない。嫌なことが起こるのではという不吉さもあった。それで中止にした。

ちなみに、ここで敢えて停止も儀式も中止もせず、完璧には拘らず不吉さも無視して書き続けれるときもある。これは曝露反応妨害の一環にもなる。曝露反応妨害とは、強迫観念が沸く状況に敢えて身を置いて、それを打ち消す為の儀式などをせずやり過ごすことだ。まあ俺の場合、自ら曝露している訳ではないので、どちらかというはただの反応妨害か。強迫観念が沸くトリガーがあってもそれに対する反応(停止、中止、儀式)などをせず、通常通り過ごすという。今回の場合だと父親による負の感情があってもブログは書き続けるということだ。まあでもそれができるのはメンタルの調子が良いときで、今日はできなかったということ。

少し話は変わるが、ちなみになぜこんなことになってしまったのかをちょっと書いてみる。

彼は以前までは何かと突っかかってきたりとかなり実害があったのだが、今はそれほど実害はない。なぜなら俺にビビっているからだ。

彼は昔からよく癇癪を起していた。おそらく理由の一つとしてコミュニケーションをマトモに取ることを放棄するためというのがあると思われる。要は自分のやっていることや主張が異常だということは薄々気づいているので、話し合いになってしまうと困るのだ。話し合いをすると自分がオカシイというコトがばれてしまう。だから会話を放棄して癇癪を起すという。

これに対して俺が逆癇癪を起すようになってから、彼は俺にビビっている。今までは癇癪を起こせばこの家では全てが通っていたのだが、対俺となるとそれが通用しなくなったと認識したのだろう。

それ以外にも彼は、息を吐くように虚言を吐く、都合が悪いと露骨に無視をする、自分の方が明らかにバカなのに相手をすぐ嘲笑する、自分が言いたいことしか話さないので会話全般がほぼ噛み合わない、バカなのに自慢をしたがる、バカなのに説教をしたがる、などもあって、俺には癇癪を起さなくなったがこれらは継続している。まあ母親に対しては今でもよく癇癪も起すが。

ちなみに幼少期は頭をぶん殴られてコブができたりもしていたが、それには全く腹が立っていない。俺の時代はそれぐらいの体罰はどこの家庭でもあった。学校では教師に殴られたこともあったしな。

それよりも彼においては内面からくる姑息さ、恥知らずさ、筋の通ってなさ、が嫌いなのだ。ちなみにこういった人間は世の中にもたくさん居る。弱い人間を虐めて強い人間に媚びる奴、嘘を付いて人を貶める奴、自分を良く見せつつ人を蹴落とすことしか考えていない奴、義理を重んじない奴。犯罪こそ犯してないのかもしれないが、人として一ミリも尊敬できないような人間。父親はそれら練り固めたような人間だ。これは生まれつきの特性や弱さからくるものなのだろうが、今の俺はどうしても許せなくなってしまうのだ。

母親は父親のことを絶対的な存在として崇めていた。母親はモノゴトを深く考えることができない人間だ。だから家庭において男親が絶対的なものだという昔ながらの考えを全面的に受け入れていたのだろう。そのうえで父親がしきりに吐く自分を大きく見せるための自慢を信じていたのだろう。それらはほぼ嘘なのに。そして俺も子供だったので父親とはすごい人間だと思っていた。だから昔はよく彼の説教を何時間も聞いたりしていた。

その反動なのだろうな。さんざん偉くてすごい人間だと教え込まれていたのに、実は最も軽蔑すべき小さく未熟な人間だったと気付いてしまった。このギャップによる衝撃が父親に対する嫌悪感になっている気もする。もともとは尊敬すべき対象だと思っていた人間が、100人に1人いるかいないかのレベルで能力も低く性格も悪い人間だったという。

そこにさらに親を恨む人が増えた理由でも書いたが、核家族化による接触時間の増加と、大人になってからも親元を離れずに同居し続けた結果、その感情は増幅していったと。

そしてそこに俺自身が引きこもりという精神的に非常に不安定な状態となり、その父親に対する負の感情が爆発したと。

この感情は怒りやイライラなどもあるのだが、さらに強迫観念という形で出てきてしまったという。汚染感や不吉感といった。

これを排除するには、まず曝露反応妨害をやっていくしかないんだろうけどな。

あとは、単純に距離を置く。距離を置いても親への恨み節を繰り返いしている人も世の中にはいるが、俺の場合そのようにはならないと踏んでいる。たぶん距離を置くと恨みよりも感謝の方が大きくなると思っている。これで父親を許し和解したい。そして親孝行したい。俺は罪悪感という感情が苦手だ。まあ誰でも苦手だろうが。今はここまで嫌悪感を持っているが、それでも父親があの世に行くまでには「親孝行できたな」と思いたい。俺はやれることやったなと。してもらったこともちゃんと認識してそれに対してできるだけ返したという自負がほしい。してもらったことを無視して、なかったことにして、それに何も返さない自分を正当化するような人間にはなりたくないから。