不吉という言葉の自己解釈

もう少しまとまった文章を書きたいんだが。引きこもり生活の中で頭がバカになっているから中々難しい。そのうち以前のようにまとまった文章も書けると信じてやればいいだろう。

ところで、今日(5月30日)起きた時、少し思ったことがある。

俺の中にある良くない観念として「不吉感」というのがある(この表現がしっくりくる)。これを克服したい。

俺が勝手に考えただけで厳密な語彙は他にあるんだろうけど、

不吉感→科学的根拠のない不安、非科学的な根拠を纏った不安

といったところだ。

それを打ち消すための非科学的な儀式を繰り返してしまうことを縁起強迫というらしい。

俺の場合、ひたすら打ち消す作業をすることも有るが、該当する作業が出来ないことがある。そのときは悶々としてしまうこともあるし、代替する儀式を新たに作ってやることも有る。

例えば父親がおかしなことをする。俺はそれが非常に不吉に感じてしまう。おかしなことはおかしなことなんだが、不吉に感じる俺も異常だ。おかしなことを止めさせるのは難しい。ということは俺の不吉な観念を強制した方が早いはずだ。

論理的に物を考えれる人間だと思う。しかし不吉さがずっと付きまとう。論理的に考えれる、おかしなことを考えているのは自分でもわかっている。しかし不吉に感じてしまうのだ。

これを解決する糸口として、俺は暴露反応妨害や森田療法と言ったものについて勉強しているのだが、それプラスα斎藤一人さんの講話を聴くことが効果的だと最近感じている。斎藤一人さんもオカルトチックなことを言う。そこには不吉さの存在も肯定している。しかし一人さんのばあい一見オカルトなのだが実は理にかなっていたりする。俺のオカルトは理にかなっていない。信じれば信じるほど人生がうまく行かなくなるリスクがある。しかし斎藤一人さんのオカルトは信じれば信じるほど人生は上手くいくようなシステムになっている。それはあえてそうしているのかもしれない。本当は論理なんだけどもオカルトを入れることで人のここをに刺さりやすくしているのかもしれない。そこにまんまとはまってみて一人さんのオカルトを信じる努力をすることで俺の中にあるオカルトを強制できるかもしれない。