子育て世帯支援への抗議から考える引きこもりの生存戦略

菅義偉首相がコロナ感染拡大の影響で困窮する子育て世帯への支援策として「子供1人当たり5万円を給付する」と表明した。

まあこれぐらいやっとけば大丈夫だろう、支持率も少しは上がるだろう、子供やシンママへの支援に文句言う奴はいるまい、そこに文句を言うような奴は悪とみなされるからな、なんて政府の心の声が聞こえてきそうだ。

ところがどっこい、実際には批判の声が多数上がっているようだ。

「独身の若者も困ってる!私達(の属性)こそ弱者だ!」だとか、「自分の意志で産んだんだろ!」だとか、「全員困ってるから全員にばら撒け!」だとか。

俺もこの気持ちは分かる。結局、可哀想ランキングの上位、あるいは声のデカい弱者だけが優遇され救われる世の中。世の中から"支援を受けるべき弱者"と認めてもらえない弱者に施しの手は差し伸べられない。だから声を上げる。

しかしさらに、そのような批判の声に対しても批判の声が投げかけられているようだ。

「次世代を担う子供たちの為に支援があるのは良いことだろ!」だとか、「自分も弱者なのに弱者が救われることを批判するなんて最低!」だとか、「救われる人がいることになぜ素直に喜べない?嫉妬してるんだろ?足を引っ張るなよ」だとか。

これには俺は少し反論したい。今回の子育て世代への支援策の是非はおいておいて、弱者が自分の属性とは違う弱者への支援を批判するのは仕方がないことだと思うのだ。なぜなら支援を受けられる弱者の席の数は限られているからだ。どうしても席の奪い合いになってしまう。つまりはゼロサムゲーム。

今回のケースでいえば、子育て世代へ支援された分、他の属性の弱者への支援は減る、あるいは無くなるわけだ。弱者を支援する為のリソースは無限じゃないからな。こんなもんは経済学だとか社会福祉学だとか学んでなくても本能レベルで分かることだ。

全ての属性の弱者が支援を受けれることはない。結局は奪い合うしかない。だから抗議が起こる。

 

ところで、限られた弱者支援のリソースをゲットするには、自分自身が"支援を受けるべき弱者"と社会から認めてもらうことだ。

能動的にこれをするには2つの方法がある。

一つ目は、自分の属性こそが支援を受けるべき弱者であることを主張することだ。裏を返せば他の属性に対しては支援を受けるほどの弱者ではないと主張することもになる。先に書いた今回の子育て世代へ支援への抗議が正にこれだ。

二つ目は、自分自身が既存の支援を受けるべき弱者属性になることだ。今回の子育て世代の支援の件でいうと、自分自身がコロナ感染拡大の影響で困窮する子育てママ(パパ)になることだ。しかしそれは無理な話。だから結果として一つ目の自分の属性こそが支援を受けるべき弱者であることを主張するという形になり多くの人が抗議をした。

 

では二つ目が適応されるケースはどのようなものがあるのか。

それは、精神福祉障害者手帳、障害者年金、生活保護などが分かりやすい。

俺はよく思うのだ、5年も引きこもっていて脱出できないでいるのだから、精神科に行って病名をゲットして、通院歴を稼いで、手帳や年金、生活保護をゲットすればいいのでは、と。

実際、そのような戦略で支援をゲトる引きこもりやニートは結構いるようで、リアルタイムで目指している人も5ちゃんねるやTwitterで何人も見かけた。

しかし、俺はなかなかそらちには行けないでいる。まだ自分はやれるという期待があるからか?いや違う。多分「そちらはそちら大変そうだ」と思っているからだろう。例えば精神科に行ってもギリ健認定されるリスクもあるし、それでドクターショッピングしたり、あるいは病名が付いても支援にまで進むには通院歴が必要であったり、医者を説得するなど、ハードルがあるからだ。

しかし「では俺も一つ目をやろうか」とはならない。これこそ無駄な徒労だからだ。シンママだけ支援ズルい!精神障害者だけずるい!俺にも支援くれ!てかベーシックインカムで全員に配れ!なんてことを叫んだところでどうにもならない。そういった抗議活動を生業にするには時間とエネルギーが無駄すぎる。

となると結局は「弱者の席の奪い合いからは離脱するのが一番楽なのでは」という考えに及ぶ。

つまり、労働して対価を貰う、貰える額を増やしたければ提供する価値を大きくするしかない、とういうごく当たり前のことをするべきということ。

あるいは発達障害の診断をゲトって投薬などの支援をつまみかじりながら労働するというのも手かもしれないが。