批判の本質は嫉妬と他責のどちらか

ダメだ今日も何もできんかったわ。だから日記は書けない。

最初にいらんことをしてしまうんだよな。最初に一番メンドウで重要なことをしなければいけないのに。

分かってるのにできないのは分かっていないということだな…

 

あれだ、関係ないんだけど今ふと思ったことがある。

俺はTwitterでもブログでも批判ばかりしているんだよな。

批判は、批判すること自体に快楽を伴うし、共感を得やすいので承認欲求も満たしやすいし、共感を得やすいということは現に需要があるということなのでコンテンツとしても成立しやすい。だから批判的なことを考えたり発信したりすると達成感を感じてしまうんだよな。

しかし今ふと思ったのだが、批判ってのは先に書いたように、一時の快楽と、一時の承認欲求の充足と、コンテンツになるのと、あとは頭の体操になるぐらいしかメリットがないんだよな。しかも、コンテンツといっても別に批判ではない価値のあるコンテンツだって沢山あるわけだし、批判以外で頭の体操をすることだっていくらでもできるわけで、むしろそれらの方が自分の為にも他者の為にも良かったりする。

そしてメリットに対してデメリットが大きすぎる。“問題と向き合い自分自身が変わるためのエネルギーと時間を失う”というデメリットだ。

批判の本質って嫉妬と他責のどちらかで、どちらも生産性ゼロだ。時間とエネルギーの無駄でしかない。ちなみに「いやいや、嫉妬による批判が無駄というのは分かるが、他責による批判は無駄ではないときもある」と反論されるかもしれない。確かに本人に直接抗議をするのなら意味があるときもある。しかし本人に抗議するのではなく、批判的なことを考えたり本人以外に向けて発信したりすることはやはり意味がない。ああ、でもまあ政治活動とかは意味があるのかもしれんか。しかしあれだ、批判ではないベクトル、つまり先にも述べた問題と向き合い自分自身が変わることにエネルギーと時間を使った方が遥かに生産的だし結果としてプラスになるのだ。何度も言うがメリットに対してデメリットが大きすぎるということだ。1のメリットがあっても同時に10のデメリットがあるので、結果として9損していることになる。つまり批判することはトータルではマイナスになるということ。

だから、嫉妬としての批判は、自分自身がその嫉妬の対象になる努力をするか、もしその嫉妬の対象になれないのならその嫉妬の対象は忘れて自分がなれる理想の自分を探して目指した方がいい。

他責としての批判は、自責に変換して自分が変わることで問題を解決していく方がいい。何度も言うが他責のままだとトータルではマイナスとなるのだ。だから例えば、極端な話、通り魔にいきなり殴られたとしても自衛できなかった自分を責めた方がいい。そして加害者である通り魔への憎しみは金輪際忘れた方が精神衛生上もいい。

 

まあそれができりゃ苦労はしないんだけどな。

 

しかし何が正しいかを確認するために書いた。

 

まあ今後も批判ツイート&批判記事は書くと思うが。がははw