人間、とくに日本人はセロトニントランスポーター遺伝子にS型を持つ人が多く、ほおっておくと不安を感じネガティブな方向にいきやすい。だから、不安を打ち消すための考え方なりを言語化して、打ち勝とうとする。しかしまあ、そういった前向きな言葉を敢えて否定して、ネガティブだっていいじゃないか、意識高い系は嫌われるぜ?といった方向にもっていき、ヒニる(ニヒリズムに浸る)のが流行っているように思う。
俺はそういうのがクソ寒いなと思うし、嫌いなのだが、ふと思ったことがある。さっき散歩をしていてふと思った。
あれだ、たいていの場合、というか、何割ぐらいかは分からないが、少なくはない数、そういったニヒっている人は、たいてい頑張っている。ニヒりつつも、ちゃんと頑張っているのだ。
俺はどうだ、前向きな言葉を否定するのは嫌い、つまり肯定している、にもかかわらず頑張っていない。ダラダラしている。いつもいつもダラダラダラダラと怠惰に時間を捨て続けている。
こんな奴がニヒってる奴寒い!などと宣って、前向きにならなきゃ前向きにならなきゃと、強迫的に考え込んで、何一つ行動せず、頑張れてないというのはとんだ笑い話だなと。そのように先ほど散歩をしながら思ったな。
あれだな、そういえば十数年前、社畜もいいところで、ぼろ雑巾みたいになっていたな。そんなとき、大学時代のバイト先の人に会ったんだよな。つこんぽ君こんなじゃなかったと言われたな。つまりどういうことかというと、もっと前向きだったと、こんなネガティブじゃなかったと、完全にやさぐれてしまっていると。俺は悲しくなってしまったな。もうこれ以上頑張れないぐらい頑張っていたわけだ。そしたらネガティブでやさぐれて後ろ向きな人間になってしまっていたという。でも頑張っていたとは思うんだよ。客観的に見てもあんなに重く拘束時間の長い労働をしている人はブラック企業が乱立していた当時だったとしてなかなかいない。
例えばだ、そのときに「止まない雨はないとかじゃなくて、今降ってるこの雨がもう耐えれないっつってんの」だとか「人生は配られたカードで戦うしかないみたいなことを、恵まれたカードを配られた人が口にするのは我慢ならない」だとか、そういった前向きな言葉を敢えて否定してニヒるためのポエムを見ていたら、賛同していたかもしれない。なんなら、すっと心の荷が下りて、救われていたかもしれない。そのように先ほど散歩をしながら思ったな。
まあ、実際には前向きな言葉によってもっと頑張らなきゃなどと考えていたかもしれんが。まあ、なにしろ、当時毎日が漆黒だったのでいまいち覚えていない。しかしまあ、もうそういう前向きな言葉に押しつぶされそうになっていたというのもあり得なくないなと。記憶が曖昧なのでいまいちはっきりと明言はできないわけだが。なにしろ辛かったときの記憶というのは意外と改ざんされていたりするらしいからな。ましてや過去の感情なんてもんはどうとでも言える。
少し話がズレてきたのでもどすと、ようするにだ、先人が考えたネガティブになりがちな人間に向けた前向きな言葉をあえて否定するという風潮に賛同しているのは、頑張りたくないのに頑張っている人かもしれない。そしてそれを見ながら、前向きな言葉を敢えて否定してニヒるのは寒いと宣い、前向きな言葉を肯定しているのは、頑張りたくないから頑張っていない、社会で戦っていない、ある種の安全圏に入り浸っている、俺のような人間だったりするのかもしれない。
ちなみに、頑張りたくて頑張っている人はたぶん前向きな言葉を否定してニヒっている連中などはあまり気にならず、自分は前向きに頑張ってるからそれでいいやと、もっとこうカラッっとした性質を示していたりする気がするな。いっぽう俺はジメジメしているな。