散歩中に考え事をするのは良くないらしいが俺は考えまくってるな

何を書いても今の自分の不甲斐なさに巧妙に言い訳しているようで、あるいは口だけ野郎が陳腐な講釈を垂れているだけのようで、というかその通りなんだけども、ブログを書く気になれねえ。書けば書くほど虚栄心を肥大させているだけのようで、あるいはネットの海に無意味に恥を曝しているだけのようで、ブログを書くことが時間の無駄なように感じてしまう。

と言いつつまあ書くんだけどな。日課なので。

 

今、散歩してきたんだが、散歩中俺はずっと何かを考えている。

色んなことを考えていて、そのことをブログに書いたりすることもあるんだが、まあ大抵は、テーマとして邪悪すぎたり、スケベすぎたり、いまいち纏まらなくて確信が薄すぎることだったり、するので結局書かなかったりする。あるいはどーれを書こーうかな♪とか思っているうちに時間が遅くなってどれも書く時間がなくなったりする。

ここまでで「あるいは」を3回も使った。こういう言葉を多用するところに虚栄心が現れている気がするな。なんか理知的な人間ぶっている感じがする。一々「あるいは」とか使う必要あるか?使うにしても「または」でいいじゃねーか。

話しを戻すと、俺は散歩中に色々と考えているということだが、何日か前に精神科医樺沢氏のYouTubeにて、散歩中に色々と考えるのは良くないとの旨が述べられているのを見たのだ。

まあ、動画の内容としては、散歩というよりも朝散歩についてで、朝散歩中にネガティブなことを考えてしまうという相談者への回答という形で述べられていたのだが、散歩中はマインドフルネスという状態であるべきで、例えば、花を見て綺麗だなとか、空を見ては気持ちいいなとか、今この時を心地よく感じているべき、みたいなことが述べられていたので、まあ、つまり俺のように散歩中に色々と考えているのはやっぱ良くないということなんだよな。

まあ専門家が言ってることだし心当たりもあるので、まあその通りなんだろう。

ここまでで「まあ」を6回も使った。こういう言葉を多用するところに虚栄心が現れている気がする。いや、「まあ」は虚栄心というよりも自信の無さの表れか、しかし自信が無いがゆえに虚栄心が肥大しやすくなっているのかもしれない。

話しを戻すと、散歩中に考え事をするのは良くない、今を感じろ、と専門家が言っているにもかかわらず、俺は散歩中いつも考え事をしているということだが、ちょっと言い訳をすると、俺はそれでも散歩の効果は感じていると言いたい。

なぜかというと、大体、歩きはじめはネガティブなことを考えていることもあるのだが、歩き終わる頃にはネガティブを小さくして、なんならポジティブに変換できていたりするからだ。歩きはじめは、イライラしていたり、後悔していたり、絶望的な気分だったり、することも多々あるが、歩いているうちに、別の解釈の仕方を発見したり、対策方法が見えてきたり、どうにかしようと思えてきたり、することがあるのだ。歩きながら自分なりに色々と考えている間に思考がポジティブな方向に逆転してくことがあるというか。

結構そういうのが多いのだ。

歩く時間が長ければ長いほどその傾向がある。俺の場合だが。

しかし逆に、どんどんネガティブになる人もいるかもしれない。だから「俺の場合だが」と書いた。だから結局樺沢氏の言うことが正しいと思う。

俺が自殺しないのは針の糸を通す穴ほどの小さな光がまだ差し込んでいるからだろう。これが消えたら、ひたすら自殺する方法を調べて、ただその実行を夢見て、決行までの過程を目標にしていく方向に転換するだろう。

もし、どんどんネガティブになる人が、この散歩中に色々と考え事をしてしまうというのをやっていると、最悪自殺願望が強くなる可能性もある気がするので、やはり樺沢氏の言うことが正しいとは思う。

樺沢氏樺沢氏って権威によえーな俺は。

でも、さっきチラッと書いたが、心当たりもあるんだよな。

というのも、俺は散歩中にほぼ毎回何かしら考え事をしてしまうのだが、引きこもりになる前は、必ずしもそうではなかった気もするんだよな。まあ元々そういう性格だから大抵は考え事してたとは思うけど、引きこもりになる前は偶に、マインドフルネスのような状態、つまり、花が綺麗だなあ、風が心地いいなあ、あの雲はまるで狐さんみたいだなあ、とかその場その場の瞬間を感じながら散歩してたときもあった気がするんだよな。だから、散歩中に考え事をしまくるのは精神に良くない、というよりも、精神状態が良くないとそのようになりがち、という卵が先か鶏が先かみたいな相関関係がある気もするな。

なんか纏まりのない文章になったな。散歩中に考えていたいまいち纏まらなくて確信が薄すぎることをブログに書こうとするとこのようになることが多い。