自分よりもずっと大変そうな人を見て心を落ち着かせることについて

戦争系の情報を追っていると「この壮絶な現場で戦っている人達の10万分の1の勇気と行動力でもあれば、今の俺の状況なんてちっぽけなものだろう、その程度の力も出せず時間を浪費して小さなマイナスを重ね続け俺は茹でガエルになろうとしている、なんて馬鹿げているのだろう」とか考えるのだが、それでも行動しないでいる。

自分よりも遥かに過酷な環境で過酷な問題に立ち向かっている人を見ると、自分の抱えている環境や問題なんてちっぽけなものだと思う。そこで若干の心の落ち着きがでる。心が軽くなる。それで、一瞬だけ“やる気”らしきものも芽生えることもある。

だからそういったコンテンツに手が伸びる。

しかし結局、現実は何も変わらない。

俺の場合いつもそうだ。

いや、引きこもりになってこの数年間の俺は少なくともそうであって、それ以前は、そういったものを見ることによって何かしら現実を変えるための行動に寄与したことは多少あった気もする。まあ、むかしのことなので忘れたな。

 

ところで、YouTubeに重度の身体障碍を持つにもかかわらず様々なことに挑戦し成し遂げた人の動画があった。そのコメント欄には、やはり『このような条件でも頑張っている人がいる、自分の抱える問題なんてちっぽけなものだ、頑張らなきゃ』といったものが散見された。まあ先に書いた戦争系の情報を追っているときの俺と同じような反応だな。

しかし一方で『こんなに大変な人がいるからといって自分の抱えている問題が大したことないなんて思わなくてもいい、あなたの苦しみは決して小さいものではない、あなたなあなたで大変なんだよ』といったコメントもあり、その返信欄は『涙が出た!』『自分の辛さを認めてくれてうれしい!』といった感動と感謝の嵐があった。

俺はこれらを見て、なんというか、これらの心理現象が起こる前に、モノゴトを分離して考えるべきなんだろうなと思った。

どういうことかというと、まず、こんなに大変な人がいるのだから自分の問題はちっぽけだ、と考えること自体は悪いことではないだろう。むしろそこで心が軽くなり問題に立ち向かう力が湧いてきて行動に移せたのなら、そんなに良いことはないだろう。しかし、自分自身の抱えている問題を侮るような結果になるリスクもあるなと。一瞬だけ心は軽くなるが、問題を侮り、結局行動はせずスルーする。これだと、自分よりも遥かに大きな問題を抱える人を見ることは、むしろ害悪だろう。要するに心が軽くなり安心するというのは、問題解決への意欲に繋がる場合と、安心からくる侮りによって問題を放置してしまうという、違った作用がある。これらを切り分けて考え、自分がどちらの方向に行こうとしているのか注視する必要がある。当然前者でなければ、そういったコンテンツはそもそも見ない方がマシだろう。

また、件のYouTube動画のコメントの後者の方についてだが、これもやや極端というか、分離すべきことがある。自分よりも遥かに大きな問題を抱えている人がいるからといって自分の抱えている問題が大したことないというわけではないという意見、これは侮ってはいけないという方向であれば良い。しかしこれを、悲観してもOKとしてしまうと、せっかく心が軽くなって力が沸こうとしていたところに水を差すだけで終わってしまう。あなたの苦しみは決してちっぽけなんかじゃない、というのはある意味甘く優しい言葉だが、悲観主義からの復活の機会を潰し、悲観主義を肯定し、なんなら強化することになりかねない。当然前向きな行動には繋がらない。

まとめると、自分よりも大きな問題を抱えている人を見て、心が軽くなるのはいい、でも現実としてある自分の問題を侮るのは違う、自分よりも大きな問題を抱えている人を見たからといって、自分の問題を否定すべきではない、でも悲観的でいればいいというわけではない、といったところか。

 

あれだ、ちょっとだけ話は変わるが、物的条件及び目に見えない内的なものを含め自分のリソースを理解して、できることを着実にこなしていく、ということなんだろうな。所謂自分よりもずっと大変そうな過酷な条件の人が頑張っているコンテンツを見たところで、それは変わらないという。

あれだ、できないことをやろうとして落胆する、できることを諦めてやろうとしない、このどっちも良くなくて、俺はこの両方をしてしまっているのだろうが、とくに前者が多いように思うな。それで引きこもりにまでなってしまったと。