病院通院の不安と結果

今日病院に行ってきた。

朝から不安だった。ここまで不安な通院は久しぶりだった。

というのも、以前も書いたように再発疑惑があったこと、前日に母親が脚の違和感(片足に力が入らず歩くのが困難)を訴えていたこと、この二つの懸念が心に引っかかっていたから。

朝7時半ごろ、家を出てもずっと悪い方向への考えごとをしていた、不安になっても仕方がないので何も考えないでおこうと思っても、ウォークマンで音楽を聴いたりもいつものようにTwitterをする気も起こらなかった。

大阪駅へ着くころには最悪の事態を考えていた。二つの懸念について、まず前回通院のときに発覚した内部の傷は潰瘍化しており、悪性のものである可能性があり、精密検査へ、結果直腸癌であることが発覚、長い闘病の開始、人工肛門、母親については足の違和感は脳梗塞が原因で、今もうすでに死亡しており、家に帰ると救急車が来ている、つまり俺は癌の闘病をしながら頭のおかしい父親と二人きりでの生活をこなせねばならない…、といった妄想に駆られていた。想定できうる最悪中の最悪を想定することで、それ以上の事態はないと分かり、覚悟を決めることができ、かえって心は平穏になる、などと期待して。しかしまあ、実際にそのような事態となったとして耐えれるかよ…と思い、けっきょく不安は変わらない、それどころかより強まる兆候すらあった。

一方で最高のケースも想定してみた。それは、俺は完治しており、家に帰ると母親も何事もなかったの様に回復している、だった。

最悪と最高、この高低差はすさまじいなと思いつつ、心の折り合いは付けられぬまま病院へと到着。

40分ほど早く着いたので、待ち時間がけっこうあった。気をどう持とうとしても不安と緊張は高まるばかり。トイレに何度もいった。しかし内心では最高の結果もあるかもしれないといった驕り高ぶる部分もあったのかもしれない。そんな絶望と希望を行ったり来たりの忙しい心。あるいは不安でいなければいけないという強迫観念じみたものもあるのかもしれない。いや、これが実は大きかったりする。『心配しているときそれは起こらなくて心配を忘れたときにそれは起こる、つまり心配し続ける必要がある』といった不合理な戒めのようなものが無意識下にあるのかもしれない。だから俺はいつもこんなふうになってしまうのだろう。

いよいよ名前を呼ばれ診察室へ。

こんにちは。どうですか?

結果は最高のほうだった。あまりにもあっけらかんとしていた。

拍子抜けてしばらくすると力が湧いてきた。傲慢になりそうになっていると自己嫌悪しつつ。ここのとこ情勢がよくなるとすぐ調子に乗りそうになるんだよな。

しかしまあこの感覚がほしいから、そして臆病すぎてもしダメだった時の保険がほしくてたまらないから、心配し続ける必要があるだなんてなってしまうんだろな。

ちなみに家に帰ると母親は無事だった。