主張とその主張者の属性は切り離して考えるべきという視点

成田闘争の件でTwitterが盛り上がっていたようだ。

まず成田闘争については俺はよくわからん。軽く調べてみると、政府と地域住民の間で空港建設において対立が続いている、ということらしい。地域住民側の主張としては空港建設には反対であり、その理由として農地が無くなるのが嫌だ、というのがあるらしい。

まあ、これから書くことは成田闘争自体とは直接関係のないことなので、これ以上詳しくは調べるつもりはない。だから政府と地域住民どちらの主張が正しいかとか俺はどちらに着くかとかはない。

 

で、前置きはここまでで、とあるツイートが気になったのだ。どういうことが書かれていたかというと「反対しているのは老人ばかりだ、これからの世代のことも考えろ、年老いたのなら全体のためのことを考えろ」といった内容だった。そしてそのツイートには賛同の引用リプライが多く付いていた。

参照1:とあるツイート

それに対して俺は「個人の権利だけでなく全体も考えるべきというのは分かるが、老人だからという理由ならそれは差別だ」と引用リプライを付けた。

参照2:俺の引用リプライ

それに対して「老い先短い老人を区別するのは仕方がない」といった旨のリプライが付いた。

参照3:それに対するリプライ

それに対して俺は「主張する人間の属性でその主張の内容が正しいかどうかを判断するのはよくないと」いった旨のリプライを返した。まあ要するに老人だからその主張は間違っているだとか、老人の主張だから軽視してもいい、だとかは違うだろうと。

参照4:さらにそれに対する俺のリプライ

しかしふと思ったのだが、論点が食い違っているような気がしてきた。まあ俺が論点をずらしてしまった感すらある。それでこの微妙な食い違いは、ツイッターの140文字という限られた文字数では説明し難いと感じたので、今からここに書いていく。

まず、「老い先短い老人を区別するのは仕方がない」というのはある意味、一理あるなと、それに対するリプライをしてから気が付いた。権利を主張し合う論争というのは、最終的には価値観に委ねられるように思う。論争において、その価値観というフェーズまでいくと、その主張をしている属性が何なのかという、つまり今回の場合だと“老人だから”という要素にも意味が出てくるということを否定はできないなと。

例えば、1億円を誰かが貰えるとして、Aさんという老人とBさんという若者で貰える権利を争ったとしよう。どちらが貰うべきかの判断基準としては様々な要素がある。そこで例えば、元々はAさんの親の金だったという要素があれば、Aさんに軍配は大きく動くだろう、あるいは元々Aさんが持っていた金だがBさんが奪おうととして地面に落ちてしまい第三者がたまたま拾ったという設定であればほぼAさんに軍配が上がるだろう。しかしこういった判断材料として分かりやすい要素を全て取っ払った場合、年齢という要素も加味する必要は、確かに出てくる。この先人生が50年以上続くであろう若者のBさんに渡した方が有効に使うかもしれないだとか、逆にAさんはこれまで散々頑張って日本に貢献してきたんだから老い先は短いかもしれないけどご褒美にあげるべき、という様々な意見があっていいだろう。つまりここではじめて価値観のフェーズに入るわけだ。

しかし、成田闘争の話にもどすと、一番最初に挙げたとあるツイートやそれに賛同する引用リプライに関しては、そうではないものを感じたのだ。たぶんこれらは、老人というだけでその意見にマイナスのバイアスを不当に掛けた差別的な意味合いが大きいと思うのだ。

俺が言いたかったのはそこだ。近年はこういった老人軽視や老人差別のような風潮がどんどん強まってきている。そしてこれを、差別ではなく正当な論理に伴う区別だと主張する人が多い。確かに中には先ほど書いた1億円の話のように、年齢が議論する上で判断材料となる場合もある、しかし論理的な区別と見せかけてただの差別である場合が散見されるのだ。そして昨今はそれがあまりにも過剰になり過ぎているように思う。

同じ成田繋がりではあるが(意味は違うがw)、成田悠輔というイエール大学助教が「高齢者は集団自決すべき」という発言を過去にしており、今話題になっていたりする。これについては、高齢というだけで能力に伴わない重要なポストについている人がいるので勇退すべきだ、という意味合いで言った、という弁解をしているようだが、まあ上記の集団自決発言の高齢者の部分を別の属性に変えると、例えば、障害者、女性などにすると、反発はもっと凄まじかっただろうし、成田氏も老人に対してであれば明らかに貶めるような過激な表現をしてもギリ大丈夫で、そこから老人を叩きたいネット民の賛同を差し引けば、総合して自分にとって得だと判断して言ったのだろう。そして現に過去に発言した際、若者を中心に賛同者は多く、今回は批判的なかたちで話題になっているが、それに対する擁護も結構ついている。しかしこれは正に老人差別そのものだと思うんだよな。そしてそれと同じようなノリで、今回の成田闘争における議論でも、老人が主張しているのだから軽視してもいい、といったニュアンスを含むツイートが支持されていたので、俺はそれは違うだろと思ったのだ。

まあバランスだわな。その主張とその属性を切り離して考えるべきところと、切り離せない部分、の両方があり、件の成田闘争に関するツイートやそれに脳死で賛同しているような人達に関していえば、切り離すべき部分までごっちゃにしており、老人の意見=間違い、軽視していい、という風潮からくる決め付けが感じられたので、それは差別だろうと、苦言を呈したわけだ。

なので、切り離せない部分もあるということは認める。ただし切り離すべき部分が切り離せていない、と言いたいのだ。今回に限らず昨今の過剰な老人叩きにおいてはそのようなものが多く見られる。