人との関わりが少ないほど人との関わりに気疲れするという仮説

散歩中に色んなことを考えるのでそこで考えたことをそのまま書けばいいとか思うのだがなかなかそう上手くもいかないんだよな。時間は今4時42分。そもそも書く時間がない。サクッと書いて早く飯を食わなければそろそろ父親が降りてきてしまう。

ところで、ツイッターでよくブロックされることがある。別のそれはいいんだが、意外な人からブロックされてたりする。

例えば今日は、俺のことだけをフォローしているアカウントで、ここ最近度々DMやリプライで長文のメッセージをくれていた人だ。内容は主に質問のようなものが多かったが、文章は丁寧だし真面目な人という印象だった。しかし今日ブロックされていた。よくわからん。

やたらと長文や連投での質問が多かったのだが、俺に興味を持ってくれているのかな?などと思い、何気にちょっと嬉しかったりもした。だから俺も丁寧に返信をしていた。また、ときには俺のことを誉めているともとれるような文章もくれており、俺もそれのお返しせねばと相手を称賛するような文章を返したりしていた。

昨日、ひとつのツイートに5つぐらい連続でリプライが来ていた。今はすべて消えているのだが、どれも長文でなかなか返すのも時間が掛かりそうだなと思いつつも、なるべく要点を捉えた返信ができるよう努めて返した。

そして今日の夜ふとその人とのやりとりを見返そうとしたらなんとブロックされていたのだ。よくわからん。

しかしこういったよくわからないことはよくある。ツイッターにおいてもこれまでの人生においても。

その度に俺は深く考えてしまう。相手がどういう人物なのか、自分のどの対応に問題があったのか、あるいはそれ以外の何かしら相手の個人的な背景があったのか、反芻し思考をめぐらす。ある程度自分のなかでの予想を付ける。

今回の場合、まず相手の人物像は正直よくわからない。どうやら俺よりも少し歳の若いニートの人らしい。俺に共感してくれるとDMで言ってくれた。しかし今思うと、やり取りを続けるにつれて、攻撃的とまではいかないにしろ、ややこちらの心臓をチクチクと刺激するような内容の発言もいくつかあったように思う。その都度「あれ?」と思ったりもしたが、まあ気のせいかなとか、まあ悪気があるわけではないよなとか、俺の気にし過ぎよなとか、思って思い過ごしていた。

しかしこれは兆候だったのかもしれない。俺は相手の質問にのみ答えるような対応になっていた気もする。つまり対応に丁寧さが足りなかったのかもしれない。はっきり言って俺は自分のことを『人から見下されるべき底辺中の底辺の人間』だと思ってる。だからその人も俺のことを内心そのように思っていたのかもしれない。しかしその人は非常に丁寧に、なんなら下手に出るような態度で俺に接してくれていた。俺はそれに甘んじて対等の態度をとっていた。その人のなかで、その違和感がどんどんと蓄積していき、深層的に「なぜ自分はこんな底辺のゴミと、なぜ対等にやり取りをしているんだ、なんならこいつよりも下手に出てやったこともある」といった不快感に変わっていったのかもしれない。

いまダラダラと他者の感情を自分の想像のなかで語ってしまった。先ほども書いたようにその人との過去のやり取りを反芻し思いをめぐらした結果だ。しかしこれは完全に的外れの可能性がある。というかその可能性が高いと思われる。例えば単に昨日から今日の夜にかけての俺のツイートのどれか1つの1フレーズがその人の逆鱗に触れる内容だっただけかもしれない。あるいはもっともっと単純なことかもしれないし。俺に腹が立ったとかそいういうことではなく俺とは関係のないところで事情があってそうなったのかもしれない。また、今書いた逆のことを言うようだが、人間の感情とそれに伴う行動というのは非常に複雑で複合的なので、まあ“コレ”というものはなかったりもする。具体的な一つに絞るのは不可能という。

答えがないことを延々と考えてしまう癖。これは人間関係においても起こる。それで気疲れする。そりゃそうだツイッターという匿名の世界で一度も会ったこともない人とたかだか数週間やり取りをしただけでこれだ。リアル社会ではもっともっと濃密で数多い人間関係の波にもまれるわけだ。それはもう俺は膨大な思考量になってしまうだろう。気付かれどころではない。

ところが、これとは逆説的な事象もある。関わる人間関係が少なすぎるから反って考えすぎてしまうという。例えば俺がたくさんの人と濃厚なやり取りを普段からしていれば、今回の件においても、動揺はするにしても尾を引く反芻思考のような状態にはならないだろう。関わっている人間の数と各々との関わりの深さの合計が思考量になるわけではない。むしろ思考できる総和は限られており関わっている人間の数と各々の関わりの深さが膨張すれば一つ一つへ向ける思考量は対応はより少なくなっていき、というか簡略化されていき、無駄に引きずるようなことはなくなっていくのでは。つまり人との関わりが少なすぎるからチョットした人との軋轢ましてやネットのなかで顔も知らない相手とのものでこんなに考えすぎてしまうのかもしれない。

なんか自分でも書いていて意味がよく分からなくなってしまった。でももう時間がない。できたらあとで推敲しよう。