深夜のスーパーマーケット。俺は堂々たる態度で自動扉を抜け、真っすぐと売り場を歩いていった。今歩いている隣の売り場にふと目をやった。すると下に落ちている商品を見つけた。ナスだ。俺は並行していた隣の売り場に移動して歩いていきナスを拾い商品棚に戻した。誰も見ていない。誰も見ていないのに俺はいいことをしたと我ながら少し誇らしい気分になった。
さらに歩いていった。買わなければならないものがある。ピルクルだ。しかしピルクル売り場に行く前に行くべき場所がある。特売コーナーだ。ピルクルはごくまれに特売コーナーに置かれている。1割程度値引きされた状態で。特売コーナーに到着すると従業員らしき人が品出しをしていた。俺は無言で従業員と商品棚の間に侵入してピルクルの確認をした。そのとき従業員は「あ、すみません」と言った。従業員が謝罪したのは俺がその従業員のことが邪魔で商品が見づらかったと気付いたからだろう。ピルクルの確認が終わると俺はスッとその場を後にした。無言で。
俺は非常に気持ち悪くなった。なぜ俺は一言言えなかったんだと。その場を後にするときに『すみません(品出しの邪魔をして)』ぐらい言えないのかよ。あるいは従業員と商品棚の間に入る前に前に言ってもいい。そうすりゃ従業員も気分が良いだろうに。そして俺も気持ちが良かったはずだ。
わざわざ離れた場所にある自分が落としたわけでもないナスを拾って商品棚に戻したことを誇らしげに思うぐらいなら、それぐらいの人への気遣いしろよと。
なんならナスなんて放っておけばいいんだよ。それよりも従業員への一言こそが大切だろう。そっちの方がよっぽど優しさだろう。そのほうがよっぽど従業員の気分がいい。なによりそういったことが出来れば俺自信が得をするんだよ。人間関係において。
分かってるんだよこんなこと。しかし俺は出来ない。
こういう分かっているのに出来ないことってたくさんあるよな。
俺は父親にイライラしてしまう。父親の気配があるだけで不吉な気分になってそれを打ち消す為の儀式をしてしまう。しかしこれは間違っている。やらなくていいことだ。父親の気配があるだけで不吉なことなんてあるはずがない。そんな妄想で気を病むことは精神の無駄な浪費だし、儀式は時間の無駄だ。しかし分かっているのだが出来ないんだよな。
脚がない人が歩くことは無理だ。物理的に無理だ。しかし従業員に一言言うことや父親のことを気にし過ぎないことはそうではないはずだ。しかし俺は一向にそれが出来ないでいる。
これは出来ないと諦めるべきなのか、出来るようにするべきなのか、境界線が難しいところでもある。だからこそ余計にしんどかったりもする。
非常にバカげている気もする。しかし現実として困っているというところがある。