未熟な親は子が自分にとって都合の良い存在でいてほしいと願う

ここに自分の本名を書くわけにはいかないのでややぼかすが、俺の名前は『寛容さ』や『優しさ』を連想する漢字で構成されている。

どういう意味で名付けたのか母親からむかし聞いたことがある。名付けたのは父親なのだが、やはり「寛大な心を持つ人間になってほしい」という意味を込めて付けたらしい。

父親は不寛容な人間だ。自分の思い通りにならないと癇癪を起すし、いつも被害妄想が強く、家族内で自分が折れることは何があっても絶対にあってはならない、といった感じだ。

口癖は「それ、誰に向かって言ってるんだ?」「はい!って素直に受け入れれねーのか!」「俺が馬鹿だって言いたいのか!?」辺りが多い。ブルドッグが威嚇しているときのような顔をしながら言う。

挙句の果てに「反対のための反対をしてきやがって!」と言いだす。こちらが理由を説明しようとしても聞かない。ここまで話が通じない人間は見たことがない。凶悪な宇宙人のようだ。

そのくせ、こちらがやることなすことには難癖をつけて、反対して、おじゃんにされてきた。

「寛大な心を持つ人間になってほしい」というのはそういうことだったのか…と勘繰りたくなってくる。自分にとって都合の良い人間になってほしいという考えがあったんじゃなかろうかと。

 

ところで、よく女性に好きなタイプの男性は?と聞くと「誠実で優しい人」という回答が返ってくることがある。言い方は悪いがこれは女性にとって都合の良い男だ。これを馬鹿真面目に実行しても女性にモテるようにはならない。

イケメンで、話がおもしろくて、強くて、能力が高い男が女性にモテる。そんな男が自分に対して優しくて誠実でいてほしいという願望が女性にはある。

つまり「誠実で優しい人」が好きなタイプの男なのではなく、好きなタイプの男が誠実で優しかったら嬉しいということ。

ここを勘違いすると不幸な男ができあがる。

誠実さと優しさを搾取されるだけで女性にはモテない。ヤれない。欲望を満たせない。下手すると何もかも上手くいかなくなる。なぜなら大抵の男の行動力の源泉は女性だ。10代20代はとくにそうだ。ただし結婚して子供ができることでその源泉は妻子に変わったりもするが。

男本人のことを考えるのなら、優しくて誠実な人間を目指せというアドバイスは間違っている。

見た目をオシャレにしましょう、トーク力を磨きましょう、格闘技を習いましょう、コミュニケーション能力を磨きましょう、仕事ができる人間になりましょう、金を稼ぐ力を付けましょう、辺りが妥当だろう。ちなみに年齢によってこれらの重要度はやや変わってくる。例えば、高校生ぐらいなら前半の3つを重視して後半の3つは長期的視点で磨いていこうとなる。そういう教育が必要だ。

そして、そのうえで優しくて誠実な人間になればいいのだ。

本人が強者になってこそ、本人が裕福になってこそ、本人が満たされてこそ、本当の意味で他者に優しくて誠実になれる。

カラカラに乾いた布をいくら絞ろうとしても水は出てこない、絞ろうとする努力は尊いのかもしれないが。

ちなみに、弱くても貧乏でも心を満たすことはできる、という論があるのは分かるが、それはある種上級者のアプローチというか、それだけで心を満たすことはやはり難しい。いずれにしろ、現実を向上させる努力と心の許容(足るを知る力)を向上させる努力の両側からのアプローチが必要だ。少なくとも可能性があるのなら前者の努力は怠ってはいけない。

 

ここで親の話に戻す。

未熟な親は子に対して自分にとって都合の良い存在になってほしいと願うことがある。優しい子でいてほしい、寛容な子でいてほしい、真面目な人間になってほしいと。

前半では父親のことを書いたが母親にもこれは大いにあったように思う。

もちろん、これらの要素が子の人生にとって良い影響をもたらすこともある。しかし優先順位がある。こられらと同等かそれ以上に生きていくうえで必要な、重要な要素がある。

強さ、見た目の美しさ、コミュニケーション能力だ。強さというのは腕っぷしもあるが、他者に舐められないようにする能力全般のことだ、まあ見た目の美しさやコミュニケーション能力も結局はそこに繋がってくるのだが。

もっと簡潔に書くと、自分自身の人生を直接的に有利に進めるための能力だ。

しかし未熟な親は、これらの能力に関しては逆に取得の機会を奪おうとする。強い人間になってほしくない、異性にモテるようなオシャレな人間になってほしくない、口だけ上手い人間になってほしくない。これらは自分にとって都合の良い存在になってほしいという願いと相反すると思っているからだ。

そして優しさ、寛容さ、真面目さ、だけを付けさせようとする。

しかしそれによって多くの場合は、周囲から舐められ、都合の良い存在と扱われ、搾取される側になり、下手すると破滅することになりかねない。

結果として、将来的に本人の人生は上手くいかなくなり、人生を謳歌するような楽しみは味わえず、人間関係や仕事で搾取され、引きこもりとなる。

そして親を憎むようになる。生命を授けてくれて、守ってくれて、食わしてくれてた、かけがえのない親をだ。

都合の良い存在どころか牙をむかれるという皮肉さよ。

女性が男に対して都合のいい人物像を求めるのは可愛いもんだ。お互い大人なんだからどうにでもなる。まあこれも行き過ぎると歪みが生じることになるが、それは双方の責任でもある。

しかし親における子の場合は、幼少からのことなのでその歪みは心の奥深くにめり込んで消えなくなる。

親は自制心が必要だ。長期的な視点が必要だ。目の前の自分の欲望に従っていないか注視が必要だ。子にとってよかれと思ったことが実は自分にとってよかれと思ったことだったりする。それは後々のリスクにつながる。

自分にとって都合の良い存在にするための教育を先行させてしまうと、後々になってそれが逆効果になってしまう可能性が高いのだ。これは本人にはそのつもりがない場合でも同じことだ。

子が自分自身の人生を直接的に有利に進めれるための教育をした方がいい。

もちろん、優しさ、寛容さ、真面目さも大切だ。しかしこれらはどちらかというと人生を間接的に有利に進めるためのものだ。

これだけじゃ不十分なんだよ。それどころかこの間接的な要素だけを優先して、直接的な要素を排除するような教育であれば、それはむしろ害悪にさえなる。

 

ちなみに、俺は親を責めたいわけではない。

といったら嘘だと思われるかもしれないが、本当だ。少なくとも今はそうだ。

親を憎み責めるような人間に未来は無いと思っている。少なくとも俺の性格ではその方向に進むと絶対に上手くいかないことは分かっている。

だからそのような考えに至らないように折り合いを付けたい。

まず第一に、自分にとって都合の良い存在になってほしいという感情は、全てに人間関係において発生する。これは親子という無償の愛で繋がった関係だったとしても、どうしても入ってしまうと考えている。ただし、親子関係においては本来この感情は最小限に抑えられるはずなのだが、未熟な親はそうはいかなかったりするのだ。

しかし一方で、純粋に相手に幸せになってほしいという感情も、親は子に対して強く持っている。少なくとも他人よりもその感情は大きい。未熟な俺の親だってそうだと思う。

ちなみに、自分の都合の良い存在になってほしいという感情と、純粋に相手が幸せになってほしいという感情はグラデーションになっている。感情というものは複雑なもので、単純に二つに分けることはできない。ここではそれを敢えて言語化して二つに分類しているだけであって、感情にはそのような二種類のニュアンス、あるいは二種類のベクトルがあり、複雑に入り混じっているということだ。

他人同士であれば、どんなに綺麗ごとを言っても、意識的か無意識的かに拘わらず、前者のニュアンスの方が大きくなる。しかしそこに問題は無い。なぜなら互いに対等であり、もしそこに何らかの問題が起こっても双方の責任に帰結するからだ。ちなみにここでいう対等というのは上下関係だとかそういう狭い意味ではない。例えば上司と部下であっても対等である。親が子に及ぼすほどの影響力はそこには無いからだ。

これが子に対する親においては、前者のニュアンスが比率が大きくなると、子への悪影響が取り返しのつかないほど大きなものへとなりやすい。なぜなら先にも書いたように、幼少期からのことなので刷り込みが大きいのだ。さらに接触時間の多さも手伝い、非常に大きな影響になる。

その結果、他人よりもはるかに無償の愛を向け幸せを願ってくれる親のことを憎む、なんてことになる。

もちろん例外はあるだろうが、多くの場合、たとえ未熟な親であっても、他人よりかは、自分の都合の良い存在でいてほしいという感情よりも、無償の愛によって本人の幸せを願う感情の方が大きくなりがちだろう。総合すると自分の都合はの方が小さくなるのではなかろうか。未熟な俺の親だってそうだと思う。しかし、親であるがゆえ、求めてしまうのだろう。前者の感情を過大に感じてしまうのだろう。そして憎しみに変わってしまうのだろう。

てな感じで考えて折り合いを付けるのだ。

しかしこの考えを俺は何度も忘れそうになるんだよな。多分明日も忘れているだろう。