深いところまで自己分析するリスク

父はコミュ障だ(※)。若い頃はそのことで悩んでなのか会話教室に行ったこともあるらしい。しかし1日で辞めたらしい。理由は、自分がコミュ障なのは片耳が聾だからだと気付いたから、らしい。

むかしから父はそのことで度々ぼやいていた。しかし俺から見れば父がコミュ障なのは片耳の聾が原因ではないと思う。一切関係ないとは言わないが、それよりもたぶん、生まれつきの脳の特性と、その後の環境と、本人の努力(の方向や量)によって形成されたものだと思われる。つまり、生まれつきコミュ障になりやすい脳の特性を持っており、環境によりそれが強まり、間違った方向に努力した、という。まあ、このことを今ここでこれ以上詳しく書くのは趣旨とも違うし面倒なので書かないが。

まあ要するに、人は誤った自己分析をしがちという話。父にいたってはその誤りを何十年も貫いているという。

ところで、昨日書いた前田仁という人物のブログを今日も見ていたのだが、前田氏もまた自己分析をしていた。それが誤っているのか正しいのかは、俺は彼と直接会って時間を共にしたわけでもないので分からないのだが、正直読んでいるかぎり違和感のある部分はあった。

簡潔にいうと彼は貧乏だからコミュ障になったと言っている。もちろんそれは彼のブログに書いている一部分であって、それとは別に彼の内心としては他にも原因があると考えていたのかもしれない。まあこれは、先ほどの父についての話でも同じだな。しかし言語化して度々それを語ったり、ブログなりにガッツリ書いたりして、そこから修正などもないままとなると、やはり自分の中で決めつけてしまうことになりかねないというか。ある種の自己洗脳になるのでは。「○○だから××ができなくなった」という。実際にはそんな単純なものなはずはないのに。もちろん、もう一度書くが、本人も内心では違っていたりしてそのことに薄々気づいていたりもするのかもしれんが、やはり言語化しすぎると強化され、執拗にそちらに寄っていってしまうのではと思うのだ。

何が言いたいのかというと、深い自己分析ってあんま意味ないというか、それどころか害悪になるリスクがあるよなって話。それも結構大きめな害悪に。いや、表面的かつ具体的な部分ではいいとは思うんだが、あまり深いところまでいくと、例えば幼少期のあれがダメだったのではとか、性格としてこういうものが生まれつきあるからダメなのではとか、あのときのアレがきっかけだったのではとか。そもそも答えなんてないのに答えを見つけた気になってしまうというか、知った気になってしまうというか。ただし、もう一度書くが、表面的かつ具体的な部分ではいいとは思う。例えば自分は飯を食って5分以上座りっぱなしでいるとその場から何時間も動けなくなるとか、だから飯を食ったら5分以内にそのために洗い物などの立仕事をしようとか。しかし、どんどん深淵に潜って自己分析をすることに関しては、正確ではない認識を自己洗脳的に強めてしまうリスクがあるよなと。その正誤の確認は非常に難しいし、ほぼ不可能に近いと思われるし。まあリスクと労力と答えが見つかりにくい点を合わせると、最早やらない方がいいんじゃないかと。そのようにふと思った。

ちなみに、深いところでやる自己分析であってもそれがプラスになるのであれば、ポジティブな行動に繋がっているのであれば、それがたとえ思い込みであったとしても、まあいいとは思う。

ここまで、人のことを挙げてあーだこーだ書いてきたが、俺自信が自己分析を深くしようとして“知った気になる”ことが結構あるので気を付けなきゃなと。そのように思って自戒として筆(キーボード)を執ったのだ。と言いつつまあ今後もその手の過ちを俺は多数やり続けるんだろうが。

※ ちなみに父は自分では自分がコミュ障だとは思っていないらしい。なんか会話教室に行ってたことや度々のぼやきと矛盾してるようだが。ある種の下らないコミュニケーションは苦手、みたいな認識っぽい。むしろ自分はコミュ強のように言ってたりもする。まあそれも含めて父と話すと混乱するし、少なくとも俺から見ればコミュ障だと思う。