コロナのおかげで「ひきこもりが正しい」みたいに言われててワロタ

普段から人ごみになんて行かないし外出しても深夜に散歩に行くぐらいなので、コロナ騒動もあまり気にならなかった。まあ親が感染したら嫌だなとかは考えるが。せいぜいその程度の興味しかなかった。

 

しかしコロナ関連のニュースが目に入るたび、何となく気持ちが安定するというか、何だか心が落ち着くような状態になっていることに気が付いた。

 

ひとつは、世の中が止まっているような気がして焦燥感(社会から置いてきぼりになってどんどん取り残されていっている…どんどん手遅れになっていってる…みたいなの)が和らぐというのがあるかもしれない。

自分が引きこもりという停止している状況なので、コロナの影響で社会も停止してくれることで自分のことを待ってくれているような気持になるというか。

まあ実際にはどのみち時間は経過していくので、俺自身の加齢や状況の悪化は止まってはいないんだけどさ。

なんとなく止まっているような錯覚に陥り無意識に心が安定しやすくなっているということだ。

 

もう一つは罪悪感の和らぎだな。本来人間はたくさん働いてたくさん人と会ってたくさん遊ぶといった、活動的であることこそが善とされるみたいな風潮(俺も実際そうだと思うし)があるわけだが、今はコロナのおかげ(おかげという言い方はよくないかもしれんが…)で人と会わないことや活動を停止して家に引きこもっていることこそが善とされる風潮になっているようだ。

それで「俺は正しい事をしているんだ、外に出て活動しまくっている方が間違っているんだ」と無意識に心が安定しやすくなっているのかもしれない。俺が意図してそうしたのではなく社会状況が勝手にそうなりつつあるだけなんだけど。

 

ところで気づいたことがあるのだが、

  • 罪悪感を感じないようにする(罪悪感を感じるようなことをしない)
  • 自分は正しい(自分は自分の価値観において正直に善であると言える)と認識する

というのがやはり精神を安定させるうえで重要ではないのかと。

youtube高橋がなりのチャンネルを見ることがあるのだが、そこには厳しい言葉が沢山あって耳が痛いのだが、すごくハッとしたこともあって、それは「人間は権利を主張するよりも義務を果たす方が気持ちが良くてどんどん運(調子)もよくなってくる」って旨の話。これを聴いた時はなるほどなと思った。

そして今回のコロナ騒動でもこれが関連していることに気が付いた。

コロナという負の状況にも関わらず心が少し癒えるのは「今俺は義務や社会貢献を果たしている」と無意識に思えているからと思われる。まあ、やっていることは今まで通りで、何かしら意図して努力したわけではなく、ただ引きこもっているだけだが。

 

コロナの脅威や悪影響は真っ当なリーマンであろうと俺みたいな社会の底辺であろうとあるんだろうけど、引きこもりにとって何となく心地がいいのは、焦燥感と罪悪感が緩むからってのがあるからと思われる。

そして後者の罪悪感という考え方については今後の生き方において参考になるような気がした。

どのようなとき罪悪感を感じるのか、どういうときに罪悪感を感じないのか、胸を張っていられるのか。

高橋がなりの話に戻るが、俺の場合、やはり権利を主張すると罪悪感はたまるし、義務や貢献によって気分は晴れるんだろうな。つまり俺は高橋がなり理論に当てはまる。

そういった気質は生まれ持ったのもであり、ごまかさずに生きていくべきなんだろうな。

ってことは今の状況は最悪最低だよな…

まあ、だから俺は精神がずっと落ち込み続けてるってことなんだろうけど。

 

あと書いていて気づいたが、コロナで亡くなった人もいるわけで、コロナ騒動で心が安定するなんてことはそれ自体が全くもって善ではないよな。ごめんなさい。