目覚ましを二つ用意することで生活リズムを直せるだろうか

生活リズムが逆転し過ぎて困っており、対策を考えてみた。

布団に入っても何時間も寝れないという失態を何度も繰り返しており、それによって精神的にも参ってきている。

そこでまず、眠たくなるまで布団に入らないというのはどうだろうと考えた。ニートだからこそなせる業。ほぼ確実に寝れそうだなと思ってから布団に入るのだ。

そのとき、目覚ましを二つ用意するひとつは第一候補の時間にセットして枕元に置き、もうひとつは第二候補の時間にセットして布団から離れた場所に置く。第一候補と第二候補の時間は2時間以上はズラす。

いちいち第一候補を作る理由は、理想を諦めれないことへの救済としてだ。たぶんいつも予定した時間に起きれないのは、理想が高すぎるからだと思う。じゃあ絶対に起きれるであろう時間に設定すればいいのだろうけど、理想が捨てれない性分なのか、どうもそれができない。そこで、理想は一応残したまま(ひとつ目の目覚まし)、現実的な目標(ふたつ目の目覚まし)もちゃんと設定するのだ。

いってみよう!やってみよう!

何もできないときの対策

俺はいつも何もできなくなる。停滞する。やらなければいけないことは沢山あるのだろうけど…

やる気が出ない、やる勇気が出ない、何をやるべきなのかわからない、迷っている、などが原因だと思われる。

ひとつ対策を考えてみた。

行動を二つに分ける

何もできない状態になったら、まず、無限にある選択肢を『良い行動』と『悪い行動』のどちらかに分ける。

良さと悪さはグラデーションになっているので明確に分けることができないこともあるが、そこは敢えて無理やりにでも分ける。

また、当然、無限にあるので全てを分けることはできない。そこは自分の意識の中に入ってくるものだけでいい。

リストアップするのもいいかもしれないが、タスクとは若干違う。それは“やらなくてもいいこと”も含まれるというところ。やらなくてもいいけど良い行動というのがある。

ちなみに、良い行動というのは、価値があるもしくは価値があるかもしれない行動ということ。価値とは、問題解決、創造、実験、確認、成長などに繋がるかどうか。

難易度が低いことが何なのか探る

そして、それら良い行動の中から何でもいいのでとりあえず選んでやってみる。

良い行動には重要度、緊急度、難易度、の3つのベクトルがあるが、ここでは重要度と緊急度は度外視して(意識しないようにして)、難易度が低いかどうかだけを基準にする。

難易度が低いというのは、楽、楽しい、簡単、得意、中毒性があるもの。

また、難易度が低いか高いかを判断するには、一度やってみないと分からない場合が多い。

難易度が高いことをやろうとしているときは、面倒くさくて着手できない、着手してもすぐ辞めてしまう、勇気が足りなくて足踏み状態になる、とったケースに陥る。やり始めるあるいはやっていて、これらのケースになり停滞していることに気付いたら、別の行動に切り替える。そうしているあいだにいつかは難易度が低いものに引っかかる。

まとめ

何も手に付かないのなら、無数にある選択肢の中からこれは良い行動でかつ難易度が低そうだと思われることをとりあえずやってみる、あるいはやろうとしてみる。

やってみてあるいはやろうとして、どうも難易度が高そうだと思ったら別の良い行動でかつ難易度が低そうなことに切り替える。

そうしていく内にやれること、つまり良い行動でかつ難易度が低いことが見つかるので、とりあえずそれをやっとく。

これによって、何もせずに時間だけが過ぎていき焦燥感と現在進行形で喪失感が募るのを緩和できるかもしれない。

これはある種の逃げなんだろうけど停止状態や悪い行動を続けるよりはマシかと。

人を批判するのは向いていないのかもしれない

人を批判するってのは大抵後味が悪いな。

人を批判することで得られる結果は以下の3つ。

  1. 相手をやっつけられる
  2. 返り討ちにあう
  3. 相手にされない

2.と3.は当然好ましくないとして、1.もあまり良いものではない。

1.が可能な相手は

  • 自分より弱い
  • 寛容な心で折れてくれてる

のどちらかの場合が多く、結局こちらの心も傷むことになる。申し訳なさというか、同情心というか、罪悪感というか。

相手の間違った考えを正すことができて一件落着!みないなのは、あまりない。

けど、相手から攻撃されたときの、正当防衛のための批判は言わなかったら言わなかったで、あとからイライラして後悔したりもするんだけどな。

 

例えば、よく父親は昔から俺や母に理不尽な攻撃をしてくるのだが、俺がグレて引きこもりになった今となっては、父親はもう70代後半のよぼよぼの老人で、そんな父親に対して俺は徹底的に批判することがある。

昔は父の方が強くて暴力や暴言の応酬で制圧されていたのだが、今はよぼよぼの老人なのでこちらが大声で怒鳴り散らかせば一蹴できるようになってしまった。

しかし罪悪感があるのかその後2、3日は気分が沈む。俺は過去の復讐をしているのだ!とか思ったりもするのだが、 気分はけしてスカッとはしない。怒鳴り散らかした瞬間は一種のカタルシスのようなものがあるが、その後はどよーんとした陰鬱な気分になる。

されるがままで相手に対して不満や憎しみが蓄積するのも辛いが、自分が相手を上回る迫力で応戦して勝ったところでそれはそれで気分は良くないっていう。

 

何なんだろうな。

 

単純に話が通じない相手だからそういう風になるってのもあるかもしれん。それだったら、相手にせず距離を置くことに徹するべきなんだろうけど、なかなか難しいな。

 

あるいは、俺が加減が分かってないってのもある。不快感を感じたらサッと指摘して、通じなさそうなら身を引くみたいなのが良いなのかもしれん。

というのも2日前、このブログに不快なコメントをしてきた人がいたんだが、そのことを記事に書いたら、さらに追撃のようなコメントがあって、相手のブログにそのことを苦情としてコメントしてしまった。

しかし考えてみれば、最初のコメントは悪意があるように感じたのだが、追撃のコメントはそこまで悪意はなかったのかもしれない。ただ不快ではあったが。

だったら受けた不快なコメントを非表示にして忘れれば済む話。なのになぜ俺はいちいち相手のブログに苦情コメントまでしてしまったのか。結局、後から負の感情として反芻しているんだよな。