無能ほど人と関わらなければならない

さきほど、ある配信をたまたま聴いていたのだが、なかなかおもしろかった。

その配信者は発達障害の当事者なのだが、まあ結婚しているらしいのだが、奥さんと揉めてるようで、揉めてる内容自体は些細なことなのだが、そこに至る経緯なども含めると夫婦関係はわりと深刻なようで、どうやらこれをきっかけにあわや離婚の危機?というところまできているようだ。

で、現状、配信者の方から奥さんにボールを投げている状態ではあるのだが、その結果が、つまり奥さんの反応(答え)が分かるのは、明日の朝となっているようだ。

これらについて配信者はダラダラと配信でしゃべっていたわけなのだが、例えば、揉め事への対応としては4つ選択肢があると考え、各々について解説をしたり、その中から自分が4つ目を選んだ理由を解説したり、さらに自分の性格を自己分析してみたり、まあ、かなり思慮深く考えている様子だった。

それを聴いていた俺は、あーその気持ちわかるとか、よく考えているなあとか、確かにその4つ目を選んだ理由は納得いくなとか、その配信者からは妙な説得力を感じていた。

しかし、途中で流れが変わった。その配信者の知人とおぼしき人が、乱入に近いかたちで配信に途中参加してきたのだ。今すぐ奥さんのところに言って話し合え、あんたは何も分かっていない、悪手ばかり選んでいる、今こうやって配信しているのも論外、などわりと手厳しいことを言いだしたのだ。

その知人、それなりに人生経験のある人のようで、これまた説得力があった。というか、人間力と言えばいいのだろうか、配信者よりも数段言葉に強さがある。俺も、ああ4つ以外にそんな選択肢があったのか!盲点だった、と心が大きく動かされたのだ。

配信者はちゃんと物事を深く考えて、論理的に考えて、自分にとってベターな選択をして、それを丁寧に分かりやすく、ウダウダと説明していたのだが、一方で知人は直感的に人間関係やものごとの真理というか、普通に考えればごく当たり前のベストな選択を、直情的に主張していた。

けっきょく配信者は知人の言う通り再度話をするため奥さんのもとへ向かうことにしたようだ。

言い方は悪いが、配信者は発達障害ということもあるし、言っていることはそれなりの説得力を持たすことはできても、それまでの経歴などを見るに無能側の人間だ。無能とは、人間関係をうまく遣り繰りしたり、物事を大局的に見てマトモな判断をしたり、してこなかった人間であろう。一方知人は人間関係や日常生活、人生における様々な選択において直感的に、深く考えなくても正しい判断ができる人間のようだ。つまり有能側の人間。

 

ところで、無能な人間というのは孤立しがちだ。その理由は様々あるのだろうが、まあ自分のズレた判断に忠告が入るのがいちいち面倒くさい、苦痛だ、と思うからではなかろうか。

俺や、俺の父親なんかまさにそれで、ドツボにはまってしまったタイプではなかろうか。

例えば、俺にも件の知人のような存在がいれば、今のような状態にはなっていなかったんじゃなかろうか。ふとそのように思った。というか、なってなかっただろうな。

これについてはまたそのうち“引きこもりになった理由”などのタイトルで詳しい記事を書こうと思うのだが、まあ、引きこもりになった大きな理由の一つは、まさに今書いた、ズレた判断を訂正されることを避け続けた結果だったりするんだろうな。

要するに、何が言いたいのかというと、まあ発達障害とか、あるいは診断がなかったとしても、これまで人間関係や人生をうまく運用できこなかったような無能な人間は、人とできるだけ関わらないとダメだな。

できれば、有能側の人間で且つ、自分のことを思いやりを持って考えてくれる相手、しかしそういった人と関わるには、しんどくても、リアルで、できるだけ人と関わり続ける必要があるわけだ。

例えば知人や友人が10人いれば、そういった忠告なりをしてくれる人が出てくる可能性が、1人しか関わる相手がいない状態の10倍あることになる。まあ関わりの深さ、信頼、時間などもあるので単純計算はできないであろうが、ふさぎ込んで、人間関係を狭めていき、心地の悪い相手はすべて切っていき、ましてや俺のように独りぼっち、引きこもりに迄なってしまうと本当にダメだな。

まあ無能がゆえに孤独になるし、孤独であれば無能に拍車がかかるという、なんとも無情な法則があるのだがな。しかしまあどこかで拍車を止めるしかないわけで、無能じゃなくなるのは無理なわけで、孤独を止めることをやるべきなんだろうな。

と言いつつも、止めれないんだろうけどな。無能だから。

 

ちなみに、さきほど以下のようなポストをしたのは、このような思考の経緯があったからだ。