無能で怠惰な健常者は無能で怠惰だから無能で怠惰な健常者なままという仮説

あまりにも無能なもんで、あまりにもやる気が出ないもんで、自分には何らかの障害や病気があるんじゃなかろうかと思って精神科を受診したところ、医者から「お前は無能で怠惰な健常者だ」と太鼓判を押された、なんてことになるのが恐ろしくて精神科を受診できない、という人は結構いるのではなかろうか。

俺もそのうちの一人だ。

しかし、精神科で障害や病気の診断が付くには努力が必要だということを最近知った。

まず診断を容易に付けてくれる医者と、渋る医者がいて、前者に当たるまでドクターショッピングすることを医者ガチャというらしい。そして問診の際にどのように言えばお望みの診断が付きやすいかだとか、どのようにおねだりすればお望みの薬(コンサータなど)が貰えるかだとか、戦略的にアピールすることがあるらしい。

さらに自立支援であったり、障害年金であったり、生活保護であったり、金銭的な支援を得るには知力、体力、情報力、行動力を駆使したさらなる努力が必要らしい。

つまり、こういった努力ができるような有能な人間ほどお望みの診断もお望みの薬もお望みの支援もゲットしやすいということ。

逆に言えば、全国にいる所謂ニートだとか引きこもりだとかワーキングプアだとかも、実はこういった努力さえできれば、病名や障害名や薬や金銭的な支援をゲットできるということかもしれない。

しかしふと思ったのだが、こういった努力よりも、底辺職なりでも働いて自分一人分だけの生活費だけでも稼ぐための努力の方が簡単なんじゃなかろうか。

戦略的に医者ガチャやアピールをして精神障害者になって支援を得るという努力よりも、底辺労働に就いてカツカツで食っていくという努力の方が簡単だから、多くの無能で怠惰な健常者は無能で怠惰な健常者なままなだけではなかろうかと。

今宮戎に行ってきた

今日は今宮戎に行ってきた。去年はコロナの関係で行かなかったので2年ぶりだ。ということは電車に乗ったのも街に行ったのも2年ぶりか。時間過ぎるの早すぎて草。

引きこもりでネットの世界に入り浸ってると「エモい」とか「草」とか「ワンチャン」とか若者が使いそうな流行の言葉を使うようになるな。アラフォーなのに。

人とのコミュニケーションというか、まあ一方的にコメントやレスを書き込むことが中心だけど、YouTubeにコメントしたり、5ちゃんに書き込んだり、ツイートしたり、こうやってブログを書いたりするのが、俺の唯一の言語を発する機会なんだよな。生身の人間とは親以外誰とも喋らねーから。

だからリアルで自分と同世代の人間がどういう言葉を使ってるのか、どういうノリなのか、とかよく分からない。この状態でふと過去の知人なんかに会ったらどう喋っていいのかよく分からないな。この言葉を使うのは普通なのかな?とか、この年齢だとどういうノリが普通なんだろう?とか。まあ今の状態を見られたくないから絶対に会いたくないけど。

ここからは、日記も兼ねて今宮戎に行ってきたことを書いていく。

面白いなあと思ったのは、やると決めたことで期限があることはそれに合わせてちゃんと行動できるんだよな。今日は今宮戎に行くって昨日から決めてたから、昨日朝方布団に入ったらわりとすぐ寝れたし一応夕方前には起きれた。ちゃんと今宮戎に行くことを計算して動いている。普段なら多分すぐ寝れなくて昼頃になってただろうし寝てからもダラダラと布団のなかで睡眠と覚醒を繰り返して夜まで起きれなかったと思う。しかし今日は行くと決めていたのでメリハリが付いた。やっぱ学校なり仕事なり人との関わりという制約がないと生きて行けないんだろうな、俺みたいなぐうたら人間は。まあこんなこと言いながらやっぱり踏み出せず延々ともう6年近くも引きこもってるんだが。

冒頭にも書いたんだが2年ぶりに電車に乗ったわけだが、やはり人目が気になるな。知り合いに会ったらどうしようという心配とかもあったが、全然知らない人からもキモいって思われてるだろうなあとか、自己肯定感が過去一ぐらいに低かったわ。実際気持ち悪い恰好だしな。服が入んねーんだよな。引きこもりになって太り過ぎて。だから一番大きいワイシャツに一番大きいジャケットを羽織ってその上に一番大きいコートを羽織って、でも前のボタンが閉まらないから全開にしてるっていう。まあ言葉で説明するのは難しいが不気味な格好だわ。まあ誰も俺のことなんか見てねーんだろうけどさ。

しかし面白いもんでしばらくすると徐々に人目が気になるって感覚は薄れていくもんだな。人から見られているという自意識を忘れる。こうやって慣らしていくんだろうな。ちなみに今日今宮戎に行くことにした理由として、バイトなり面接なりに向けた慣らし作業のためって気持ちもあった。

最寄り駅の大国町に着くと意外と空いていた。今日は一粒万倍日という超吉日なので人は多いと踏んでいたのだが、2年前の十分の一ぐらいだった。ちなみに今日今宮戎に行った理由として一粒万倍日だからというのもあった。

古い笹を奉納して参拝して新笹を貰った。新笹は神社の男性が「この笹どうですかー」って一本ずつ見せていって、広がりや葉の付きがしっかりした良さげな笹があると「それください」って応じるのが主流。例年俺はとくに選りすぐりせず最初に見せられた笹をそのまま貰うのだが、今日は傲慢にも良さげな笹を選りすぐった。これはメンタルの状態としては良い兆候なのかもしれない。そういえば大国町から今宮戎向かうとき赤信号も無視したな。俺は遠慮がちすぎるから、多少傲慢なほうがいいというか自分が間違ってないのなら自分に自信を持った方がいい。まあ赤信号無視は間違ってるか。でも絶対車来ないし馬鹿正直に守る必要ないときってあるじゃん?今日のはそんなシチュエーションだったから。

なんか今書いていてメンドクサクなってきた。一連のこと全部書くのは面倒だな。もう少し端折っていくか。

新笹を貰って帰路につく。ところで行きしなから思っていたことなんだが、俺身長縮んでね?昔電車に乗るとき上の広告とか扉の上部とかが頭に当たっていた気がするんだよな。大体自分よりも背が高い人って少なかったんだけど、今日はなんか自分と同じぐらいか自分よりも背が高い人が多い気がした。なんでだろな。最近の若い人がデカくなったのか、俺が縮んだのか。まあ両方だろな。なんか姿勢が悪くなった気がする。引きこもりになる直前は60キロ代半ばぐらいだったけど今100キロ超えとるからね。猫背になって腹が出た。昔は歩くとき腹をへっこましていたんだけど、それができないんだよな。食い過ぎなのか、便秘気味なのか、はらをへっこますと苦しい。そういえば家を出るとき飯をけっこう掻き込んだな。外出するときはあまり食わない方がいいという発見をしたわ。姿勢を戻して身長を元に戻したいな。まずは食う量を減らして便通を良くすることかな。でも食う量を減らすと便通は基本悪くなるんだよな。一日の食事の回数を減らすのがいいのかもしれん。腹の中にものが溜まってない時間を作りたい。その時間なら腹をへっこましても苦しくならないだろうから。

途中梅田のコンコースを通った。ヘップファイブ前もちょっと見てみた。昔よく行ってた場所。何してたかというとナンパ。昔は根暗だったり社会不適合だったり友達が少なかったりする人達が梅田でよくナンパをしていた(今でもそうなのかな?)。俺もその一人。しかし今じゃとてもじゃないけどナンパなんてできそうもない。人に道を聞くのも億劫だ。それどころか電車に乗るのも億劫。人に見られるのが億劫。

あれだな。引きこもり期間と容姿の劣化と自己肯定感と低下は比例していくな。コロナの去年を除き今宮戎だけは毎年行ってたんだが、その度に容姿の気持ち悪さと自己肯定感の低下を思い知らされてたんだが、今日は過去最低だわ。

行きしなの電車は座れていたんだけど帰りの電車は座れなかったので汗をかいた。立ってるだけでやたらとしんどい。デブだから。ちなみに座ってるときは座ってるときで腹が苦しくてしんどかったが。デブはろくなことがないな。

汗があまりにも不快だったのと電車賃をケチるため途中から数駅分歩いて帰ることにした。この道もよく昔歩いていたな。日雇いのバイトをしたり、遊びに行ったり、その帰りの電車賃をケチるため1時間ぐらいウォーキングして帰ることは昔から多かった。今日は久しぶりにそのルートを歩いた。めちゃめちゃ疲れた。

家につくと腰が痛くなった。やはり姿勢が悪いようだ。

見落とされがちな孤独の意外なデメリット

『一人じゃ何もできないのかよ』って台詞は昔からよく見かけるが、そもそも殆どの人間ってのは一人じゃ何もできないものなんだよ。引きこもり生活ももう6年目に突入しようとしているのだが、つくづくそう思うようになった。

いや、自分のことは自分でしようとか、人に流されるだけではなく自分から動こうとか、そいうのは一面では大切だとは思う。しかし、それはある種の傲りになりかねないというか、殆どの人間ってのは一人では何もできないものだから、自分は一人では何もできないものだという体で生きた方がいい、と思うようになった。そこを見誤ると痛い目にあう。俺のように。

色々な人に支えられて生きているとか、支え合って生きていくとか、そういう大それた意味じゃない。もっとミクロ的な視点というか、引きこもりになって感じたことなのだが、一人ぼっちだと人生における諸々の小さな行動すらもことごとくできなくなるんだよ。ちなみに諸々の小さな行動ってのは人生における大きな結果に結びついたりする。

これは別の機会でまたちゃんと詳しく書こうと思うのだが、引きこもり脱出に付与する(あるいはその可能性がある)行動ってのがいくつかある。例えば、簡単そうなアルバイトからやってみる、福祉に繋げるため精神科を受診する等。もっと簡単な前段階的なところだと、ファションなど見た目をマトモにする、趣味や気晴らしで外出してみる等。悪い方向だと、犯罪者になる、自殺する等。

ざっと挙げたが、これらの行動ってのは一人でやるのは意外なほど難しいのだ。人との関わりの中でなし崩し的に行動に移すことになりがちというか、一人で引きこもっていると考えたり想像したりまではできるが行動にまでは移せなかったりする。

例えば、福祉に繋げるため精神科を受診する、でいうと。まず友人や職場の人と発達障害の話題が出る。「お前もそのけがあるんじゃね?」とか「実は俺そうかもしれないわ」とか「近場だと○○クリニックがあるけど評判悪いらしいよ」とか何らかのコミュニケーションが繰り広げられる。そうこうしている内に「俺ちょっと病院行ってみるわ」となったりする。あるいは「俺、実は病院行ってきた」とか友人から聞いて自分も行こうとなったりすることがあったり。

他には、赤信号みんなで渡れば怖くないじゃないけど、誘い合ったり一緒にやることで心理的なハードルが下がって行動に移せることもあったりする。

このように、あーでもないこーでもないとコミュニケーションを取っている間に行動に付与する情報が集まったり、モチベーションが沸いて来たりして、それですんなり行動に移せたりする。あるいは誘い合うことで行動に移せたりする。

殆どの人間が、人との関わりの中から知らず知らずの内に背中を押されて行動しているのだ。

しかし引きこもりだとこのようシチュエーションが一切ない。

引きこもり状態が続くことでメンタルの状態が悪くなり臆病さや無気力さが酷くなっていくことで行動力がなくなるというのもあるだろうが、人との関わりから生まれる行動の糸口がないというのも、引きこもりが引きこもりから状態から脱するための行動ができずに延々と引きこもり続けてしまう大きな原因の一つなんだと思う。凝り固まっちまうというか。ほぐれる機会がないというか。

『友人など人とのつながりは大切にしましょう』とは昔からよく言われるが、それは困ったとき助け合うとか、悩みを相談するとか、そういう意味も勿論あるんだろうが、行動の糸口ができるって意味も大きいんだろな。

引きこもりになってはじめて気づいたわ。バカだから。

あるいはここら辺のバカさというか、傲慢さが、俺が引きこもりになってしまった一因だったりしてな。