神様や霊的なものに監視されていて何か間違ったことをすると罰が下ると思っている。
そして罰を回避するためのルール、打ち消すための儀式がある。
それらが理にかなったものなのならともかく、全くもって理にかなっていない異常な観念によるものなのが困る。
例えば、ある物に一度触れてしまったらもう一度タッチしなければいけないというルールだとか、決められた暗証番号が不吉さを連想してしまう数字列だと変更をしなければいけないだとか、1日に数回あるポーズで祈らなければいけないだとか、ある日付にあることを禁止するルールだとか、様々な儀式には決められた順番があるだとか、数えればきりがない。
これらの殆どはべつに一般的に縁起が良いとされているようなことではなく、自分の妄想の中で決めた独りよがりのルール。
これをしてはいけないとか、これをしてしまった場合はある儀式で打ち消さなければいけないとか、のルールを自分の妄想の中で勝手に決めていってる。
幼少期からこの兆候はあり、年齢とともに酷くなっていき、ひきこもりになった今が一番酷い。
また、精神が不安定になると何か恐ろしいことが起こるのではという根拠のない恐怖が増大していき、ルールや儀式の量が増える。それへのとらわれ・執着心も大きくなる。
このことについて最近ふと思ったことがある。
こういうのって実はとても"情けのないこと"なのではと思いはじめたのだ。
神様への媚び
先ほども書いたがルールや儀式の多くはまったく論理性に欠けている。
にもかかわらず執着してしまう。依存してしまう。
例えば、俺はこのままひきこもりのまま状況は悪化していきさらに不幸になり人生を終えるのでは?という恐怖心があるとしよう。そこで、その恐怖・ストレス・焦燥感・絶望を打ち消すかのように儀式を増やしていき執着していくのだ。
これは認知の歪みといえよう。言い換えればただのアホ。
問題を解決するための具体的な行動をせずただただ神様に媚びているだけという…
俺は媚びているつもりはなかったのだが、気づかない内にそういうふうになっていたということ。
媚びやすい体質
俺はむかしから媚びやすい性格だった。俺を知る人に聞くとそんなことはないと言われるかもしれないが俺はそう思う。
予防線を張ってしまうのだ。自分に実力がないことを知っているから。自信がないから。
自分が失敗して失望されたときのことばかり考えて。
これはある種、相手への親切心なのかもしれない。失望させては申し訳ないというもの。
しかしこれは卑怯である。情けないのだ。
媚びるよりもやるべきこと
バランスは大切である。
もちろん神様にも人にも媚びることはある意味必要だと思う。
しかし実際に実力を付けること、具体的かつ理にかなった行動にて現実を変える努力も必要だ。てかそっちの方が大切だ。
神様だって媚びてくる人よりも現実を変えるための努力をしてる人に手を差し伸べるのでは?
ところで、新卒の新入社員のマナー、エチケットが過剰なのと似ているのかもしれない。つまり俺は神様へのマナー、エチケットを気にしすぎて独りよがりの謎の観念とルールと儀式に捕らわれすぎているということ。
媚びてるだけの人はダメだ。現実を変えるにはどうするか論理的に考えて、理にかなった具体的な努力をする方にフォーカスした方がいい。
しかし、このような文章を書いていてもやはりあまり良くないことが起きるのでは?罰が当たるのでは?という恐怖もある。
なんじゃそりゃ。