絶対的に正しいコミュニケーションはない

最近YouTubeで国際問題についての動画をよく見る。仕事もしてないニートほど無駄にスケールの大きなことに興味を持ちたがるのか、あるいは単に加齢により、こういった国際問題に目を向けることで自分自身の問題からは目を背けるという、ある種の成長停止状態になってしまったのだろうか。

ところで、昨日見た動画で興味深い内容があった。尖閣諸島沖における脅威に関する動画だ。

参照:【尖閣最新映像】中国海警局76ミリ砲搭載か・・・高まる脅威に海上保安庁“強化”どうあるべき【深層NEWS】

中国の公船が尖閣諸島沖の領海に侵入して海上保安庁がそれを追い払おうとするのだが、物理的な攻撃をするとエスカレーションしかねないので、拡声器で「ここは日本の領土である!ただちに退去せよ!」といった文言を伝えるらしい。すると中国の工船も同じように拡声器で「ここは中国の領土である!ただちに立ち去れ!」と対抗してくるらしい。

そして近年は中国の公船が領海内に居座る時間が長くなってきており、危機感が高まってきているとのこと。このままでは中国に乗っ取られてしまうと。

ただ、日本も頑張っているようで、いまのところ何とか持ちこたえている模様。

どういった点を意識して頑張っているかというと、

  • こちらのほうが強いというアピールをする
  • 拡声器で言い合いになった際、こちらの主張を伝えた状態で言い合いを終わらす

というのがあるらしい。

もちろんこれだけではないのだろうが、この二つが俺は印象に残った。

あーちなみに、国際問題とか政治について語るつもりはない。ここからは全く関係ない話をしようとしている。

一応詳細を書くと、まず、こちらのほうが強いとアピールすることで相手が諦めて退散する、侵攻してこない、といった効果があるとのこと。まあそりゃそうだわな。

そして拡声器で言い合いになった際に向こう(中国側)の言い分で終わった場合、『反論してこないということはこちらの言い分を受け入れたことだ』などと思われてしまう可能性があるとのこと。なので、お互い相反するが同じような内容の主張を何度も言い合いするという押し問答のようなやり取りが続いたとしても、必ずこちらの主張を伝えた上で終わらすことを心がけているらしい。

しかしまあ、非常に単純というか、昨今の複雑化した日本社会における人と人とのコミュニケーションではあまり見ないというか、二つ目にかぎっては動画の中でも言われていたが側から見れば小学生の喧嘩のようなやり取りである。しかしこれは国と国における非常に重要かつ重大なコミュニケーションなのである。

なんというか、あれだな、「非常に単純」などと書いたが、これが間違っているとかレベルが低いとかそういうわけではないんだよな。むしろある国と国とのコミュニケーションにおいてはこれが正しいからやっているのだろう。国家間という複雑な関係性と、失敗が許されないという重大さを背負った上で、多くの優秀なブレインによって生み出された最善と思われるコミュニケーション、むしろレベルが高いともいえる。

ということは、俺は勘違いしていたのだろう。自分の価値観が正しいと思い過ぎている。だからこのようなコミュニケーションを非常に単純だとか、ある意味、優劣でいうと劣だと決めつけてしまっていたきらいがある。

ところで、実は父親はよくこのようなコミュニケーションをとる。議論や話し合いではなく、一方的に意見を通すための方法論に重きを置く、というか。もちろん現代の日本社会における人と人とのコミュニケーションにおいてこのようなことをすると、嫌われ者になる。現代の日本という平和な社会においては調和が重要だ。

しかし父親が生まれた昭和前期や戦時中ではどうだったのだろう。あるいはそれよりももっと昔、明治時代や江戸時代、戦国時代なんかはどうだったのだろう。多分、調和重視ではなく、どちらかというと先ほど書いた国と国との、あるいは父親がよくやりがちなコミュニケーションに近いものが多かったのではなかろうか。少なくとも現代よりはずっと。これが正しいとされる、つまり有効であった場面が多かったのでは。

ちなみにこれは、ある意味男性的なコミュニケーションともいえるかもしれないな。どちらが強いか弱いか、上下関係を付けて一方的に意見を通す関係性を作った方がスムーズという考えの基なされてきたのかもしれない。あるいは国と国との関係性のように、シンプルに互いの物的な損得、利害のみを目的とする場合も、どうしてもそうならざるえないという事情もあるだろう。

あれだな、考えてみれば当たり前なのだが、時代と状況によってコミュニケーションにおける重視すべき方法論は変わってくる。何がレベルが高くて何がレベルが低いではなく、時と場合によって使うべきコミュニケーションが変わってくる。なんなら全然違ってくる。そこを間違えると悲惨なことになるという。

昭和前期よりも前の時代であれば、とくに男性であれば、国と国とのあるいは父親がよくやりがちなコミュニケーションをとる人が多かったのではなかろうか。しかし時代が変わっていき調和重視も必要となってきた。また、相手との関係性や状況によって使い分ける場合もあるだろう。

頭の良い人であれば、例えば昭和前期以前に生まれた高齢男性であったとしてもこの使い分け、および変化への対応ができるのだろう。しかしそうではない高齢男性は一辺倒になりがちなのかもしれない。それがうちの父親という。

しかしまあ、そう考えると父親は悪気があるのではなく、自分がこれまで見聞きし体験してきたことをもとに、とくに深く考えずそのコミュニケーションを使い続けているともいえる。まあそれをされている側としては悪意しか感じないわけだが。しかしまあ、考えようによっては悪意ではなく凝り固まっているだけ、とも解釈できるわけだ。

なんか、いまいち纏まりのない文章になってしまったが、要点を挙げると、動画内で説明された国と国とのコミュニケーションがあまりにも俺が常識としていたコミュニケーションと乖離していた点。そしてそれは決して間違っているとかレベルが低いとかではなく、むしろ高度に計算された、これはこれであるべき一つの正しいコミュニケーションなんだなとショックを受けた点。それに関連して、長年悩まされ続けている父親の不可解なコミュニケーションを思い出して、彼は彼なりの経験と価値観と知能のもとそのようになったのだな、と思った点。そして絶対的に正しいコミュニケーションはなく時代や条件に応じて変化させていく必要がある(まあ、考えてみれば当たり前だが)という点、などが言いたかった。

また、最後に挙げた考えを前提にすることで、相手がコミュニケーションで何を重視しているかというのも見えてくるかもしれない、などとも思ったりした。

あれだ、絶対的に正しいコミュニケーションはなく何を重視しているかで変わってくる、あるいは、その人の経験をもとにした惰性や凝り固まった価値観によってなされている場合があったりする。つまり、こちらとしては何を重視してどうすべきかは考えた方がいい。逆に相手を見る時はそういった観点で見ることで、相手が重視していることが見えたり、相手の性質が分かったりするかもしれない。

まあ、引きこもりがなに言ってんだか、って感じだが。