完璧主義だとこんな糞ブログすら書けなくなる

父親へのアレルギーがひどいので父親が二階で寝ている深夜に作業をしようとするのだが、父親は定期的に降りてきて大音量で痰を絡めるので、その音で思考がフリーズして作業が終了する。

例えば、このブログを書こうとする。発想と文章をまとめる作業にはそれなりの思考力がいる。俺はとろいので1時間以上はかかる。途中で父親が痰を絡める音が入る。一気にやる気をなくす。というか何も考えれなくなる。このまま書き続けても事実と違うことや思ってもいないことを書いてしまう気がする。この記事を書くことで不幸なことが起こるのではという強迫観念さえ湧いてくる。そして書くのをやめる。

困ったもんだ。

では昼間に書くのはどうだろう。父親は昼間は基本痰を絡めない。しかしこのブログは書こうと思ったときじゃないと書けない。書こうと思ったときにキーボードを打ち始めると一気に掻けたりするが「明日の9時に書こう」などと思っても書けない。いや、書けるには書けるんだろうけど、このブログは俺が思ったときに思ったことを書きたいし経験したことも忘れる前に書きたい。

となるとやはり深夜に書くことが多くなり、父親が痰を絡める音は避けれないときはどうしても出てきてしまう。

ではもう“諦める”というのがいいのかもしれない。痰を絡める音を聞いてしまい思考がフリーズした場合、記事が書けなくなって終わる、書き続けたとしても記事の質が大幅に落ちる、といった状態になる。それを受け入れるのだ。

少なくとも思考がフリーズするのが怖いと考えて強いストレスや父親への憎悪を膨らますというのは論外である。あるいはもう深夜は何もできないと諦める、これもトータルで見れば、あまりオススメ(自分に)できない。

トータルで見れば諦めずに書いた方がいいと思われる。思考がフリーズして途中で書くのをやめてしまったとしても頑張って書き切るのだ。するとやはり完成度は低くなる。しかし別にいいじゃないか。たかだか趣味程度のブログなんだし。匿名で書いてるのでそこに責任が生まれるわけでもなし。もしかしたら、そうこうしている内に、フリーズに慣れるかもしれない。それで完成度の低下もマシになってくるかもしれない。

書きたいと思ったときに書くという、のは大きなアドバンテージであり、父親の痰の音でフリーズして完成度が下がるという点を差し引いても、書いた方がいい、という考えのもと考えた結論である。